特別記者 鹿間孝一


 かつて大阪の人々は夏になると、南部の堺市から高石市にかけての海岸に海水浴に出かけた。歌枕の地で高師浜(たかしのはま)と呼ばれ、古くから白砂青松の景勝で知られた。

 明治になって新田開発が計画された。明治6(1873)年、たまたま訪れた大久保利通が、伐採される松林を惜しんで、

 音に聞く高師の浜のはま松も  世のあだ波は のがれざりけり

 と詠んだ。内務卿の一声で開発計画は中止となり、一帯はわが国初の公立公園に指定された。浜寺公園である。

 大正から昭和の初めにかけて「東洋一の海水浴場」のにぎわいをみせ、人気の別荘地でもあったが、沖合を埋め立てて泉北臨海工業地帯が造成されたため、今はもう海水浴客の姿はない。

 南海高師浜駅の駅前に「浜寺俘虜(ふりょ)(捕虜)収容所跡」のレリーフがある。日露戦争で捕虜になったロシア兵の収容所がここにあった。現在は住宅街になっているが、碁盤の目のように整然と区画された道路は収容所の名残である。

 明治37(1904)年2月から1年半に及んだ日露戦争では、約8万人の捕虜が日本に送られた。うち最大時には2万8000人が浜寺に収容された。当時の高石村の人口は約3500人だから、地元はさぞ驚天動地だったろう。

 この地が選ばれたのは、陸軍第4師団の司令部が大阪に置かれていたのに加えて、戦時には似つかわしくないが、気候温暖、風光明媚(めいび)が決め手になったという。

 遡(さかのぼ)る1899年、日本も参加してオランダ・ハーグで第1回万国平和会議が開かれ、捕虜、傷病者に対する人道的な扱いが定められた。日露戦争は会議後初めての大規模戦争であり、国際的に注視された。一等国の仲間入りをめざす日本は、とりわけ捕虜の待遇に気を使った。

 当初は次々に送られてくる捕虜をテントに収容したが、2万人近い大工や作業員を動員して突貫工事で居住棟を建てた。診療所、礼拝堂、パン工場などが設けられ、日本語教室も開かれた。まだ一般家庭に電気が行き届いていない時代に、収容所内ではどこも電灯がついた。

 運動のために外出も許可され、毎朝隊列を組んで大鳥神社、大浜潮場などへ出かけ、夕方に戻った。地元の住民との交流もあり、親しくなって家に招待される捕虜もいたという。

 負傷者のために皇后陛下から義手、義足、義眼が贈られ、ロシア政府からは同盟国だったフランスを介して手当金が支給された。

 明治39(1906)年2月までに全員がロシアへ送還されたが、収容中に亡くなった89人は共同墓地に手厚く葬られた。

 余話もある。捕虜の中に、のちに「イスラエル建国の英雄」と呼ばれたユダヤ人のヨセフ・トランペルドールがいた。親切な扱いに感激し、日本のような小さな国がどうして大国ロシアに勝てたのかと考え、「日本を手本としたユダヤ人国家を建設する」と誓った。

 やがてパレスチナへ渡り、建国闘争で銃弾に倒れるが、「国のために死ぬほどの名誉はない」と言って息を引き取った。これも日本兵から教えられた言葉だった。

 浜寺公園の一角に「日露友好之像」が建っている。平成14(2002)年5月に建立され、碑文には「ロシアの勇猛果敢なる子が永遠に人々の記憶にとどまらんことを!」。当時の小泉純一郎首相、プーチン大統領が署名している。

 自虐的に歴史を振り返り、隣国から要求されるまま謝罪を繰り返すより、わずか100年ほど前に、世界に称賛され、胸を張れる史実があったことを覚えておきたい。そして日本人としての誇りをこそ子供たちに教えたい。(しかま こういち)