ふと思い立ち、織田フィールドまで足を延ばした。

 1週間前の日曜日。開放日はいつもトラックを駆け、フィールドに跳ぶアスリートで賑(にぎ)わっているはずが、昼下がりのグラウンドに人の影はなかった。

 「デング熱の影響なんでしょうね。ここは日本一利用者の多い競技場なんですがねえ…」

 受付の職員は所在なげに溜(た)め息をひとつついた。
 

スポーツの歴史を知る


 NHK放送センター隣にあるここは、正式名称を東京都公園協会代々木公園陸上競技場という。言うまでもなく代々木公園に併設された施設である。

 表参道から延びる道路で公園と隔てられ、デング熱媒介の蚊は発見されていない。閉鎖対象でもないのに“被害”が及ぶ。情報の奇妙な広がりと過敏さを思わずにいられなかった。
 もう「織田フィールド」と言って、すぐに反応する人は少なくなった。第一、冠の「織田」がわからない。織田信長と関係あるの?と聞いてきた女子学生には驚かされたが、織田幹雄を知らない。

 1928年のアムステルダム五輪、織田は陸上競技三段跳びで15メートル21を跳んで優勝、日本人初の金メダリストとなった。

 功績を後世に残すため、64年東京五輪選手村に併設された練習用グラウンドにその名を頂いた。飛距離は国立競技場フィールド内に立てられたポールの高さである。これらもまた大事なスポーツ遺産、しかし、それが必ずしも周知されていない。

 大リーグのイチロー選手やテニスの錦織圭選手の活躍は歴史上の名選手に光をあてた。マスコミが取り上げたからだ。

 幾度となくスポーツの歴史を知る楽しさ、歴史を語り継ぐ大切さに言及した。しかし小学校や中学校、高校の授業で取り上げられることは稀(まれ)だ。どの教科で教え、教材はあるのか…問題は少なくない。教える先生もいない。情報は蓄積され、伝達されなければ意味をなさない。


織田幹雄と情報収集 


 64年東京五輪当時、織田フィールドは競技に臨む選手たちの調整の場として大きな役割を果たした。国立霞ケ丘競技場での本番に向け、ここで体をほぐし調子を整えていく。

 と同時に、各国・地域選手たちがどんなトレーニングをしているか、調子はどうか、情報を知る場ともなっていた。

 スポーツ写真のオーソリティーとして、60年ローマ五輪からオリンピック取材を続ける岸本健さんにこんな逸話を伺ったことがある。陸上競技日本代表総監督だった織田幹雄が、織田フィールドの近くに部屋を借り、調整にきた海外のコーチや選手たちを招き入れては情報収集に励んでいたという。「いかにも織田さんらしいでしょ」

 そういえば1996年春、鵠沼(くげぬま)の老人用施設に住む91歳の織田に話を聴いた。1時間の予定が2時間を超え、心配した職員が幾度も顔をのぞかせる。かまわず織田は、金メダルは情報収集のたまものと話し、情報を得る重要さを力説した。懐かしくも、貴重な証言であった。

 

伝える大切さを思う


 織田フィールドは64年、もう一つ大役を担った。パラリンピック、いや当時は国際ストークマンデビル競技大会(ISMG)の開会式会場である。

 秋晴れの11月8日日曜日、皇太子時代の天皇、皇后両陛下ご臨席のもと、ISMG旗を先頭に大会22カ国・地域390選手が行進した。NHK厚生文化事業団制作の特集番組は、屈託のない選手たちの表情を映しながら言葉をかぶせていく。「華やかさも厳粛さもないが、明るく和やかな印象だ」

 華やかさ、厳粛さはオリンピックとの比較だろう。実はこの開会式、招待者以外の観衆は存在しない。なぜなのか、明確な理由は知らない。障害者スポーツへの理解が足りないとの判断があったためだろうか…。

 番組の中の日本人選手たちは朗らかな外国人選手と比べ、沈みがちに見えた。それが試合や交流を経て変わっていく。世界を知った喜びだったろう。

 あの頃と比べ、日本での浸透は進んだ。昨年9月11日の招致決定後は記事も増えている。それでも、身体障害者スポーツの環境水準は欧米の比ではない。周囲の理解に加え、組織と競技の成熟度がまだ足りない。情報発信の不足は言うまでもない。

 変えていくには訴え、伝え続けることが肝心だ。メディアの役割は重い。無人の織田フィールドを眺めながら、情報を扱う難しさを考えていた…。
(産経新聞特別記者・佐野慎輔)