男子車いすテニスの国枝慎吾
 10月18日に始まった仁川アジア・パラリンピック競技大会が24日、閉幕した。圧倒的な強さで今季4大大会制覇に続く優勝を遂げた男子車いすテニスの国枝慎吾の見事な技に見ほれ、男子陸上100メートル(切断など)で2010年広州大会に次いで連覇した山本篤の力強い走りに身を乗り出していた。

 中継ではなくニュース映像だったが、競技性が強く伝わった。新聞は限られた紙面で地味な扱いに終わった。ただ長崎国体とほぼ同じスペースで運動面を占めたことは少しだけ進歩である。

 パラリンピックは、イングランドにあるストーク・マンデビル病院で1948年に開催された院内の車いす患者を集めたアーチェリー大会が発祥である。この病院は第二次大戦で脊髄を損傷する兵士が増加することを見越し、治療と社会復帰のための施設として開設された。当時、脊髄損傷は手術し寝ていることだけが治療だったという。

 しかし、初代脊髄損傷科長の医師ルードウィッヒ・グッドマンは、手術をできるだけ避けてスポーツをリハビリの中心に据え、患者の早期回復、社会復帰にめざましい効果をあげた。

男子陸上100メートル(切断など)の山本篤
 「失われたものを数えるのではなく、残された機能を最大限に生かそう」

 グッドマンは車いす患者にスポーツを奨励。52年にはオランダからの参加を得て「国際ストーク・マンデビル競技大会」に発展し、60年ローマでの初のパラリンピック開催に至る。

 以上、日本パラリンピック委員会企画部、井田朋宏の論文『障がい者スポーツの50年』を参照した。

 今では当たり前になったリハビリでのスポーツの活用は、導入までに幾多の障害があったと想像に難くない。まして競技大会開催なら…。

 グッドマンがパラリンピックの父ならば、日本の障害者スポーツ生みの親は国立別府病院整形外科部長の中村裕。ローマ大会直前にストーク・マンデビル病院を視察、グッドマンから啓示を受けた中村は61年、地元大分で身体障害者体育大会を開く。当時障害者は体を動かさず、人目に触れさせずが風潮。「見せ物にする気か」と周囲の医師やマスコミなどから強い非難を受けての船出だった。

 50年の歳月を経て「こんなにも変わるとは…」と井田は書き記す。6年後の日本社会はもっと変わっていなければならない。仁川での選手の活躍を見ていて心底そう思った。=敬称略
(産経新聞特別記者・佐野慎輔)