宮川禎一(京都国立博物館上席研究員)

 坂本龍馬の死から150年も経過してまた新たな手紙が現れたのかと驚かれた方もいるだろう。ほぼ最初にこの手紙を拝見した者としてその内容と意義を短く書いておきたい。

 手紙は龍馬が慶応3年11月10日に書いたもので、宛先は京都の越前藩邸に居る福井藩重臣の中根雪江である。この手紙が書かれた状況を見てみよう。土佐藩が幕閣に提出した「大政奉還建白書」を受けて、十五代将軍徳川慶喜は慶応3年10月14日に朝廷に政権の返上を申し出た。

 それを受けて、後藤象二郎や坂本龍馬・海援隊士らは朝廷中心の新政府樹立に向けた活動を活発におこなっていた。龍馬は新政府にまったく財源がないことを危惧して、旧知である越前福井藩士、三岡八郎(のちの由利公正)を新政府の財政担当者として出仕させるため、10月末から11月初旬に福井を訪ねて藩の罰で幽閉中の三岡八郎に面会し、新政府の財政のありかたを詳しく聞いた。このことは近年発見された「越行の記」の記述にあるとおりである。

 この新出の書簡は福井から京都へ戻ってきたのち、龍馬が京都に到着した中根雪江にあてた手紙である。全くの新出史料であり、封紙まで当時のまま残っている。おそらく福井で伝世していたのであろう。手紙の日付である慶応三年の「十一月十日」は龍馬が近江屋で暗殺されるわずか5日前のものである。
新たに見つかった坂本龍馬の書状の一部。右から3行目に「新国家」の文字が確認できる
新たに見つかった坂本龍馬の書状の一部。右から3行目に「新国家」の文字が確認できる
 福井藩前藩主の松平春嶽は11月2日に福井を出立し、同月8日に京都到着した。また中根もほぼ同時期に上京している。龍馬の方は11月3日に福井を発って同月5日には京都に戻っている(余談だが龍馬は福井から雪深い湖西路を通って京都へ戻ってきたことが近年の研究で明らかにされている)。龍馬はおそらく河原町の近江屋でこの手紙を書き、誰か使いの者が二条城の向かいにあった越前藩邸に届けたのであろう。

 手紙の最初は中根への謝辞である。徳川親藩である福井藩の松平春嶽が朝廷の召しに応じて大政奉還後の京都に入ったことは土佐藩を中心とする公議政体論派からは歓迎すべきことであり、龍馬が「千万の兵を得た心中にて」と書いたことはうなずける。春嶽上京に関して中根が尽力したことに龍馬は感謝を述べている。

 その一方、龍馬が福井で三岡八郎に面会の後、中根雪江にも面会し、三岡の新政府出仕を直接懇願したようなのだが、どうやら色よい返事はもらえなかったらしい。そこで上京してきた中根に改めて「先頃直接申し上げておきました三岡八郎兄の上京・出仕の一件」を重ねて懇願し、その藩内手続きへの尽力を要請している。「三岡兄の上京が一日遅れれば、新国家の家計(財政)の成立が一日遅れる」という文章表現に龍馬らしさが表れている。

 「越行の記」にあるように龍馬は11月5日の帰京後、新政府上層部に三岡八郎(略して三八)を出仕させるように強く推薦していた。その結果、岩倉具視ら新政府首脳から福井藩へ出仕を求める連絡(最初は11月6日に召状が出ているという)が何度も出るのであるが、福井藩内の事情のためかなかなかその話は進まなかったらしい。

 三岡は文久三年以来、四年余りも藩の罪人として幽閉中であったことに由来するようだ。実際に三岡が京都に来たのはこの一月あまり後、龍馬の死後、慶応三年の十二月半ばのことになったのだ。このタイムラグの存在が福井藩内の何らかの事情(三岡を出すことに反対する勢力[中根を含む]の存在)を推察させるため、後日誰かが「他見を憚るものなり」との朱書付箋を封紙に付けたものと考えられる。それが150年もの間この手紙が世に出なかった要因であろう。