日本サッカー協会最高顧問の川淵三郎は東京オリンピック・パラリンピック組織委員会評議員でもある。つい先日、スポーツ議員連盟の国会議員たちの前でこんな話を披露した。

 「1960年夏、僕は日本代表の一員として西ドイツに遠征した際、素晴らしい光景に出合った…」

 その年、日本サッカー界は4年後に東京五輪を控えながら予選で敗退、ローマ五輪に出場できなかった。起死回生のためにドイツ人コーチ、デットマール・クラマーを招聘(しょうへい)、出会いを兼ねての遠征だった。

 川淵はドイツ西部の工業都市、デュイスブルクでの思い出を語る。練習したスポーツ・シューレ(学校)は青々とした天然芝のピッチが8面広がっていた。それが後のJリーグ百年構想につながるのだが、「素晴らしい光景」と話すもうひとつの出合いは体育館にあった。車いすの人たちが歓声を上げながらバレーボールを楽しんでいる。「ドイツと日本のスポーツへの意識の違いを感じた」という。

 当時の日本では障害者はスポーツはおろか外に出ない、いや外に出さない状況だった。西ドイツとの差は歴然としていた。

 英国ではパラリンピックの前身、国際ストーク・マンデビル競技大会(ISMG)が開催されていたが、西ドイツでも障害者スポーツ大会が開かれていた。前者が車いす使用者限定競技大会であるのに対し、後者は全ての身体障害者が参加する大会。64年のISMG東京招致に尽力する国立別府病院整形外科部長の中村裕は、対立関係にあった両者の融合を目指した。

 結局、車いす選手によるISMGを第1部、全ての身体障害者が参加する国内大会を第2部として「パラリンピック東京大会」開催を迎えた。あまり語られていないが、今のパラリンピックの原型は東京にあるといえなくもない。50年前の11月8日のことである。

 川淵は言う。「ドイツをはじめ欧米では健常者と障害者が一緒にスポーツしているし施設もある。日本は初めから分けてしまう。それでは本当のスポーツ文化の醸成にならない。ルールなど進め方を工夫すれば少しでも前に進んでいく」

 理事長を務める首都大学東京・荒川キャンパスの体育施設では融合に向けた取り組みを始めている。きっと組織委でも取り上げていくだろう。欠席や途中退席が目立った議連の会合、川淵の熱い思いを受け止めてもらいたい…。=敬称略
(産経新聞特別記者・佐野慎輔)