「負けて勝つ」人工知能から学ぶ棋士こそ進化できる

『茂木健一郎』

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茂木健一郎(脳科学者)

 ここでは、将棋や囲碁を題材に、人間と人工知能の関わりについて考える。思考のきっかけになったのは、最近の一連の事件であることは確かである。

 昨年、グーグルの子会社ディープマインドの開発した「アルファ碁」が世界チャンピオンのイ・セドルさんを破ったことは衝撃を与えた。囲碁だけではない。将棋のソフトの能力も向上し、そのことが背景になって、将棋連盟を揺るがす事件があった。

 昨年末には、インターネット上の囲碁対局サイトに「マスター」を名乗る謎の対局者が現れ、トップ棋士を相手に60連勝。後に、「アルファ碁」の進化形であったことが明らかにされた。このような時代に、人間と人工知能の関係を考える上で、将棋や囲碁が、いわば「炭鉱のカナリア」の役割を果たしていることは事実である。

 以下の議論では、特定の事件や人物に言及することは敢えてしない。時事ニュースは大切だが、それによってより長い時間のスケールから見た本質が見えなくなってしまうことがあるからだ。

 問題にしたいのは、次のような本質的な問題である。

 人間は、急激に進化する人工知能の前に、屈するしかないのか? 人工知能時代における人間の役割は、どのようなものなのか?

コンピューター将棋ソフト「ボンクラーズ」と戦い、 敗れた米長邦雄永世棋聖=2012年1月14日、 東京・千駄ケ谷の将棋会館
 先に挙げた最近の幾つかの出来事で、少なくとも囲碁や将棋においては、もはや人工知能が人間を凌駕しており、人間界のチャンピオンでも勝てない状況になっているらしいということが推測されるようになった。

 もちろん、興行的にはこれからも人間と人工知能の戦いが開催されるだろうが、その結果は恐らく人間の負けとなる。

 それでは、囲碁や将棋において、人間どうしの対戦はもはや意味がないのだろうか? 人工知能と人間の対決は、どうなのか? そもそも、これからの時代、将棋や囲碁の棋士に存在価値があるのか?

 将棋や囲碁は、時に「頭脳スポーツ」と呼ばれることがある。実際、過去に、マインドスポーツ、頭脳版オリンピックというかたちで、大会が開催されたことがあった。

 結局、この問題は、「スポーツ」ということの原点に戻らないと本質が見えないと思う。そして「スポーツ」の本質に寄り添って考えることで、これからの人工知能時代における人間にとっての活路が見えてくると私は考える。
スポーツとして将棋や囲碁を考える

 「スポーツ」という言葉は、もともと「楽しむ」「エンターテインメント」という意味合いを持っている。勝負も大切だが、それを行うことで人間が楽しい時間を過ごせれば良いのである。

 スポーツとして将棋や囲碁を考えると、たとえ人工知能が人間を上回る能力を持っていたとしてもそこには問題の本質がないことがよくわかる。

 例えば、100メートル走は、現在、ウサイン・ボルト選手の9秒58が世界記録である。競技としての100メートル走の醍醐味は、生身の人間が、その身体を駆使してこれだけの距離をあれだけの速さで走るというところにある。たとえ、機械がそれ以上のスピードを出せたとしても、関係がない。

 実際、自動車、新幹線、飛行機などを持ち出すまでもなく、ボルト選手以上の速さで100メートルを走る機械はいくらでもある。だからと言って、ボルト選手の偉業の意味は全く毀損されないだろう。



 将棋や囲碁も同じことである。18ヶ月ごとに集積度が2倍になるという「ムーア」の法則の下高速化してきたコンピュータが、莫大なメモリを駆使し、大量のデータを解析して生み出すプログラムに、生身の人間が負けたからといって、人間の棋士の意味がなくなるわけではもちろんない。



 イ・セドルさんを破った時点で、アルファ碁の開発費用は、クラウド上でCPUを駆使するレンタル代換算で、30億円に相当するという説を聞いたことがある。それだけのメモリも、電力も使っている。いわば人工知能は「電力の化物」だ。対して、昼食にうな丼を食べるだけで対局できる人間の棋士は、驚くべき省エネだということができるだろう。

アルファ碁との対戦後に碁盤を見つめるイ・セドル九段=2016年3月15日、ソウル
 そもそも、膨大なリソースを駆使する人工知能と人間を比較するのが、土台間違っている。条件が違いすぎるからだ。それでも、将棋や囲碁といった分野で人工知能が人間を破ったのは、確かに衝撃的な出来事ではあった。これまで、どんなにエネルギーやメモリを食う高速なコンピュータでも人間の棋士には勝てないと私たちが期待し、思い込んできたのは、それだけ「思考」が特別なもので、容易に解析できない複雑なものだと考えてきたからだ。

 しかし、人工知能が人間を超えないだろうという期待は破れた。コンピュータのアーキテクチャーは格段の進歩を遂げたわけではないし、人工知能の学習則も変わっていない。CPUの高速化やメモリの増大、そしてシステムをチューニングする幾つかの経験則の組み合わせによって、人工知能は人間をやすやすと超えてしまったのだ。

 今後、科学や技術の発達によって、思考のメカニズムが明らかにされ、さまざまな学習のアルゴリズムも実装され、人間を凌駕する数々の人工知能が登場してくるだろう。文明の発展のためには是非とも必要なイノベーションであり、歓迎すべきだろう。

 しかし、そうなっても、スポーツとしての将棋や囲碁の意義が消えてしまうわけではない。むしろ、スポーツ競技としての醍醐味は、さらに加速していくのではないか。
「人工知能ドーピング」に嵌らないために

 すでに、将棋の棋士たちは人工知能の対局を参考にして、将棋という未知の宇宙を探索し始めている。人間が従来の経験則や感性に邪魔されて発見できないでいた「新手」について、人工知能の助けを借りて学び始めているのだ。

 囲碁も同じである。アルファ碁も、それが進化したマスターも、人間の棋士では打たないような手で快勝した。人工知能は、すでに独創性を持ち始めている。その自由さにインスパイアされることで、生身の人間が対局するスポーツとしての将棋や囲碁はさらに進化し、魅力を増すことだろう。

 人工知能は、運動で言えば筋肉や運動機能を鍛える「ジム」の機能を果たすようになる。将棋や囲碁の棋士が、人工知能と戦い、人工知能の助けを借りて鍛錬することで、むしろ生身の人間としての能力を高めることができると期待されるのである。

 人工知能の助けを借りて人間が進化する。このような人間と人工知能の関わりは、他の分野でも生まれてくるものと思われる。

デビュー戦の藤井聡太四段(右)と対局する現役最年長の加藤一二三・九段 =2016年12月24日、東京都渋谷区の将棋会館
 たとえば、ネット上で100以上の言語の間の相互翻訳を提供する「グーグル翻訳」のような人工知能の発達で、将来的には、外国語を母語に直して理解することはやさしくなってくるかもしれない。しかし、その場合にも、生身の人間が何のアシストもなしに外国語を理解する「スポーツとしての外国語」の意味はなくならないだろう。

 むしろ、たとえ人工知能のサービスが存在しても、自分自身の生身の脳で外国語を駆使できることがあこがれと尊敬の念を持ってみられるようになるに違いない。

 人工知能は、将棋や囲碁だけでなく、さまざまな頭脳スポーツの発展を促す可能性が高いと、私は考えている。より深く、より強く考えたいというのは人間の本能の一つである。将棋や囲碁の棋士たちは、今、人工知能の切り開く新たな鍛錬の可能性を前に、身震いしているに違いない。

 ところで、スポーツの醍醐味は、生身の人間がそれを行うところである。薬物の助けを借りたりするドーピングは、興ざめとなる。

 同じように、人工知能で脳を鍛えるのは良いが、それに安易に頼ってしまっては、それは一種の人工知能ドーピングであり、スポーツとしての質を下げてしまうだろう。

 人工知能を、人間をより高みへと進化させるきっかけとして使うか、それとも、頼ってしまって衰退するか。人工知能時代の人間には、高い倫理観が求められる。自分自身を厳しく律することこそが、人工知能時代の頭脳スポーツのアスリートが心がけるべき、一番の課題であろう。 

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