「スポーツ」という言葉は、もともと「楽しむ」「エンターテインメント」という意味合いを持っている。勝負も大切だが、それを行うことで人間が楽しい時間を過ごせれば良いのである。

 スポーツとして将棋や囲碁を考えると、たとえ人工知能が人間を上回る能力を持っていたとしてもそこには問題の本質がないことがよくわかる。

 例えば、100メートル走は、現在、ウサイン・ボルト選手の9秒58が世界記録である。競技としての100メートル走の醍醐味は、生身の人間が、その身体を駆使してこれだけの距離をあれだけの速さで走るというところにある。たとえ、機械がそれ以上のスピードを出せたとしても、関係がない。

 実際、自動車、新幹線、飛行機などを持ち出すまでもなく、ボルト選手以上の速さで100メートルを走る機械はいくらでもある。だからと言って、ボルト選手の偉業の意味は全く毀損されないだろう。



 将棋や囲碁も同じことである。18ヶ月ごとに集積度が2倍になるという「ムーア」の法則の下高速化してきたコンピュータが、莫大なメモリを駆使し、大量のデータを解析して生み出すプログラムに、生身の人間が負けたからといって、人間の棋士の意味がなくなるわけではもちろんない。



 イ・セドルさんを破った時点で、アルファ碁の開発費用は、クラウド上でCPUを駆使するレンタル代換算で、30億円に相当するという説を聞いたことがある。それだけのメモリも、電力も使っている。いわば人工知能は「電力の化物」だ。対して、昼食にうな丼を食べるだけで対局できる人間の棋士は、驚くべき省エネだということができるだろう。

アルファ碁との対戦後に碁盤を見つめるイ・セドル九段=2016年3月15日、ソウル
アルファ碁との対戦後に碁盤を見つめるイ・セドル九段=2016年3月15日、ソウル
 そもそも、膨大なリソースを駆使する人工知能と人間を比較するのが、土台間違っている。条件が違いすぎるからだ。それでも、将棋や囲碁といった分野で人工知能が人間を破ったのは、確かに衝撃的な出来事ではあった。これまで、どんなにエネルギーやメモリを食う高速なコンピュータでも人間の棋士には勝てないと私たちが期待し、思い込んできたのは、それだけ「思考」が特別なもので、容易に解析できない複雑なものだと考えてきたからだ。

 しかし、人工知能が人間を超えないだろうという期待は破れた。コンピュータのアーキテクチャーは格段の進歩を遂げたわけではないし、人工知能の学習則も変わっていない。CPUの高速化やメモリの増大、そしてシステムをチューニングする幾つかの経験則の組み合わせによって、人工知能は人間をやすやすと超えてしまったのだ。

 今後、科学や技術の発達によって、思考のメカニズムが明らかにされ、さまざまな学習のアルゴリズムも実装され、人間を凌駕する数々の人工知能が登場してくるだろう。文明の発展のためには是非とも必要なイノベーションであり、歓迎すべきだろう。

 しかし、そうなっても、スポーツとしての将棋や囲碁の意義が消えてしまうわけではない。むしろ、スポーツ競技としての醍醐味は、さらに加速していくのではないか。