名越健郎(拓殖大学海外事情研究所教授)

 米経済誌フォーブスは2016年12月、「世界で最も影響力のある人物」に4年連続でロシアのプーチン大統領を選出したが、シリアやウクライナで過激な政策を貫くプーチン戦略が欧州や中東などの激動を招いた。

 2000年にめぐり合わせで最高指導者に上り詰めたプーチンは、当初はプラグマチックな政治家で、欧米首脳に敬意を払い、国際法も順守していた。それが今日、すっかり保守派のイデオローグとなり、冒険主義的な外交安保政策を推進すると予想した人はほとんどいないだろう。

 この17年の「プーチンの変貌」がロシアと世界を変えたと言えるが、米国の女性ロシア研究者、キンバリー・マーチン米バーナード大学教授は「柔道がプーチンの出方を読むカギだ」と指摘する。

 マーチン教授は「プーチンは戦略家ではなく戦術家だ。彼は包括的な戦略を必要とするチェスの愛好家ではなく、鍛錬で柔道の名手になった。アイスホッケーも得意だが、柔道やアイスホッケーは戦略よりも相手の出方やその場の状況で咄嗟の判断を必要とされる戦術的な競技だ」とし、柔道名誉八段のプーチンが柔道を軸に政治、外交を組み立てていると分析する。
ロシア南部ソチで行われた柔道の練習で、相手を投げ飛ばすプーチン大統領=2016年1月(AP)
ロシア南部ソチで行われた柔道の練習で、相手を投げ飛ばすプーチン大統領=2016年1月(AP)
 確かに、プーチンは最初から今日のような国粋主義的な政策を進めたわけではなく、状況に応じた咄嗟の判断から国粋主義路線を積み重ねたと言える。

 特に2003、04年の事件や展開がプーチン路線の急激な変化を生んだ。石油王のホドルコフスキー・ユコス社長が米国の石油メジャーと連携したり、野党に政治献金して政権基盤を揺るがせようとしたことで、プーチン政権は2003年10月にユコス社長を脱税などで逮捕。ユコスを解体して国有化し、これを機に経済全体への国家統制を強めた。

 死者330人以上を出した04年9月の北オセチア共和国ベスランでの学校占拠人質事件は国民に衝撃を与えたが、プーチンは事件直後、国家的危機を克服するとして中央統制を強化する非常措置を発表。与党に有利な選挙制度改革や知事の事実上の任命制を断行し、一元支配を確立した。

 04年末のウクライナでの「オレンジ革命」も、政権の変質を促した。プーチンは旧ソ連で続いた民衆革命の背後に米国がいるとみて対米敵対姿勢を強め、米国の究極目標はロシアでカラー革命を起こすことだと警戒した。

 04年の北大西洋条約機構(NATO)とEU(欧州連合)の東方拡大、08年のグルジア戦争、10年からの中東での「アラブの春」など、一連の事件に咄嗟的に対抗措置を取り、内外政策で強硬姿勢を強めた。国内の守りを固めるため、04年から第二次大戦勝利を盛大に祝う戦勝神話を新たな国家イデオロギーとした。

 プーチンはもともと、旧ソ連国家保安委員会(KGB)のケースオフィサーだったが、ソ連時代は共産党が戦略を策定し、KGBは戦術を担当する役回りだった。KGBでの経験から安定重視、大国志向、国益優先の意識が強かったプーチンは、一連の事件に柔道の戦術的対応を積み重ねる中で、今日の国粋主義者に変貌したかにみえる。