【WEDGE REPORT】



風樹茂 (作家、国際コンサルタント)


 2009年秋、私は身近にチャべスを見る機会があった。職場を訪れたのである。ジープを自ら運転し、元気に現場を歩きまわる外見からは全く健康そうに見えた。その4年後に死んでしまったことが、いまだ、私には信じられない。チャべス死の謎に挑む。
チャべスは自らジープを運転し元気だった
チャべスは自らジープを運転し元気だった

前立腺癌が発覚、手術後一気に悪化した


 チャべスはいつごろからか、歩行時に足が痛むと言い始めていた。大統領官邸のキューバ人医師たちを通じて、それを最初に知ったのはカストロである。2011年1月カストロはチャべスの元にスペイン医師ガルシア・サブリィノを送った。医師は前立腺癌を疑い、チャべスにきちんと検査したほうがいいと助言したが、医者嫌いのチャべスは受け付けなかった。

 けれども、5月の初めには左足の膝が痛み、歩行に困難を伴った。カストロの勧めもあり、チャべスはハバナへと飛び立った。外科・検査センター(Cimeq)で検査すると、前立腺癌が発覚し、骨盤に転移していた。

 6月10日、キューバ人医師が手術をした。その後、ロシア人医師が派遣され2度目の手術が行われた。6月30日、手術後療養中のチャべスはハバナからベネズエラ国民向けに伝えた。「偉大なフィデルが癌の辛い告知をしてくれた。癌細胞はすべて削除された」

 ベネズエラ政府も、チャべスは完治したと発表した。翌年12月に大統領選挙が迫っていた。その時から、チャべスは10回を超える頻繁なキューバ詣でによる治療を続けることになる。チャべスは化学療法(抗がん剤治療)を受け続け、ステロイド療法の力を借りて歩行困難を克服し、外遊などの政治活動を続けた。顔はむくみ、髪の毛は抜け落ちた。

 翌年1月8日にはチャべスは熱帯雨林のど真ん中に位置する、イランとの協力プロジェクト、セメント工場「セーロ・アスル」の前にいた。石油公社の職員を前に、日曜日のテレビ番組「こんにちわ 大統領」を7カ月振りに中継し、5時間しゃべり続け、サルサバンド「マデラ」が演奏する明るいリズムに乗って、南米の民族楽器レコレコを奏でながら踊った。癌を克服したかに見えた。

 けれども、2012年2月には同じ部位に癌が再発。2月26日にキューバで再手術を受け、放射線治療も始まった。手術後、チャベスは、カラカス沖160 キロにあるカリブ海のラ・オルチラ(La Orchila)島で秘密裏に療養したといわれる。陸軍・空軍の基地があり、軍・政府の高官のみが訪れる場所だった。

 皮肉だった。2002年のクーデター時にチャべスが幽閉された場所である。そのときは、命を奪われるか、キューバに亡命するか、それとも大統領で居続けるかの瀬戸際にいた。今は選挙までは生き続ける必要があった。

 2012年7月1日、選挙選の火ぶたが切られた。投票日は2カ月早められていた。チャベスは全国を巡る選挙キャラバンカーの上で、まだまだ元気に見えた。ボクサーの真似をし、ギターを弾き、歌い、踊り、叫んだ。「ビバ! ボリバル革命!」「勝利の日まで!」いつもと同じ空虚なお祭り騒ぎだった。熱狂する民衆は、めったに現実化しない幻想に酔わされ続けた。

 実際はチャべスは疲労、吐き気、痛みに耐え、モルヒネを打ちながら選挙戦を戦ったともいわれる。命をかけた甲斐があり、10月7日、得票率55%で、野党統一候補のエンリケ・カプリレス(44%)を退け4選を果たした。

 その後の動静はあまり伝わらない。選挙キャンペーンの無理がたたり、容態はかなり悪化していたのではなかろうか。また、当時、不都合な事実が暴かれていた。年初にチャべスが訪れた「セロ・アス―ル」のセメント工場は中途で挫折し、機材は野晒になり、労働争議が頻発していた。中途で放棄されるプロジェクトのひとつにすぎなかった。

 11月24日からチャべスの病状は急変した。下腹に激痛が走り、2度意識を失い、喀血した。27日に急遽キューバ空軍機でハバナへと送られ、翌日には癌の専門チームがロシアから派遣され、高圧酸素療法が施工された。

 12月7日、チャべスはカラカスに飛んで帰り、8日に政府幹部とともにテレビに出演した。チャべスの右に政府ナンバー2の国会議長ディサード・カベージョ、左に副大統領に昇格したニコラス・マドゥロ(現大統領)が座った。

 チャべスはサータディ・ナイトフィーバーの映画の思い出を語り、自身の革命を総括し、もう一度ハバナで手術をする必要があると言い、もし帰国できないときにはと、マドゥロを大統領候補に指名した。そして祖国を称える歌をうたい、叫んだ。「勝利の日まで、ベネズエラ万歳!」。全員が復唱した。

 カストロが、ベネズエラ最大のコカインカルテル「ロス・ソレス」に君臨する個性の強い軍人上がりのディオサードではなく、元バスの運転手で、組合活動家だった従順なマドゥロを好んだのだ。マドゥロは大卒ではないが、24歳のときには、キューバで政治教育を受けている。