人生の意味


 これまでの「戦争モノ」の作品は、あの戦争への反省(あるいは美化)のメッセージを入れなければならないという強迫観念の元、作品の中で生きる人々を「他者」として描いてきた。だから何万回「反戦平和」あるいは「反核」といっても、最終段階では伝わっていない。その証拠にネット空間はあの戦争の(事実に基づかない)美化で溢れている。「平和教育」を受けたはずの人々が、歴史の事実を呪詛して、しまいには日中戦争すら日本が被害者でコミンテルンの陰謀だった、などとしている。その結実がくだんの大手ホテルチェーンの客室に置かれた同チェーンCEOの歴史観の開陳であろう。
(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
 こう考えると、戦後営々と続けられてきた「平和教育」の高らかな叫びは、何万回を費やしても無意味だったのかもしれない。そしてその空疎な掛け声は、「他者性」を強調するがあまり、『この世界の片隅に』の2時間を超克することはできないのである。幾万の「反戦」「平和」を叫ぶより、『この世界の片隅に』を観よ。私が言えることはそれだけだ。

 片渕監督は『マイマイ新子と千年の魔法』で「円環」を描いた。つまり、すべてのものに無駄などなく、生も死も繋がっている、と。片渕監督が初監督した長編アニメ映画『アリーテ姫』(2001年)でも、主人公アリーテ姫は「人生に意味なんてない」という魔法使い(実際は高度に発達した旧世界文明の生き残り)の言葉に反駁する。「人生には意味がある」。

 片渕監督へのインタビューで彼は私にこう語って下さった。「―もしかしたらすべてのことや人生に意味なんてないのかもしれない。でも、意味はあると思いたいじゃないですか」。私もそう思う。少なくとも私が『この世界の片隅に』にリアルタイムで出会ったことには、意味があると思う。そしてこの作品が、2016年という、戦後50年とか60年とか、別段イベント的時代の区切りとは全く関係なく登場して、そして大ヒットしたことにも、何か人類史的な意味があるはずだ。その総合的解釈は、後世の子々孫々に任せよう。いまはただ、『この世界の片隅に』の感動に打ち震える段階である。