武田文彦(リンカーンクラブ代表)

はじめに


 第一次安倍政権の成立は2006年9月から07年9月まで。第二次安倍政権は12年12月から今日に至る。この間、安倍首相は一切独裁政治はしていない。非合法な政治もしておらず、安倍政治にはなんら責め立てられる所はない。議会制民主主義の政治をまっとうしたと言ってもいい。

 安倍首相は独裁政治をしていないと私は断言したわけだが、論を進めるにあたって独裁政治という言葉について、一応概念規定をしておきたい。

衆院本会議での所信表明演説で、熱弁をふるう安倍晋三首相=2016年9月26日午後、国会・衆院本会議場(宮川浩和撮影)
衆院本会議での所信表明演説で、熱弁をふるう
安倍晋三首相=2016年9月26日、国会
 現代的な意味での独裁政治は、特定の個人ないし集団が権力を掌握し、専断的な支配を行う政治であり、被治者である大衆への支持調達、大衆の政治過程への参加が見られる点で、それらを欠く専制政治と区別される。一般には軍部の独裁や発展途上国に見られる開発独裁などは民主主義とは相容れないと考えられるが、内乱や戦争などの緊急事態において権力者の専断的政治的支配をあらかじめ憲法に規定している場合(立憲独裁)は、民主主義体制の防衛に貢献する。(弘文堂「政治学事典」より)とある。この定義に則って安倍政治をみたとしても、安倍政権は独裁政権ではない。

 この定義の完成度が少し不十分な気がするので独裁政治の定義を私なりにし直してみたい。

 独裁政治とは、特定の個人や集団の確固たる意志、思い込み、執念あるいは恣意としかいえないようなものもふくめて、政治的な意思に対する反対のあるなしに拘わらず、あるいは正・誤、要・不要、適法か・否かも含めて一切糾されることなく、あるいは糾弾されるというプロセスはあっても結果にはなんら影響がなく、政治の全面に貫徹される政治と、はなはだ独善的ではあるが、私は定義づけてみたのだが、このように定義を変えても、安倍政権は独裁政権であるとは言えないであろう。

 しかし少なくとも日本の今の政治は、安倍首相でなければ思いつかなかったであろう政策的なアイディア、言い換えると安倍首相の恣意とも思い付きとも、執念ともいえるのだが、集団的自衛権の行使に関する問題で、安倍首相以外の総裁に率いられていた自由民主党は日本国憲法第9条の下、違憲としてきた自衛隊の集団的自衛権行使を、正反対に合憲と、憲法の解釈を独自にし、その実現のための安全保障関連法案をことごとく成立させたのだ。

 それだけでなく、安倍首相の日本政治に対する固有の意思、思い、こだわりはすべて実現され、後は共謀罪の新設と日本国憲法改正を残すだけという状態になってしまった。しかもまもなく共謀罪は名称を変え実現され、更に日本国憲法も改正される可能性がいよいよ高まってきている。

 してみると、日本の政治が独裁体制か否かを問う前に、日本の民主主義政治の実情と言うものは、内閣総理大臣の思うことが何であっても、例えばそれが明らかに日本国憲法の根本的理念とも言うべき重要な条文に違反すると、迷うことなく大多数の憲法の専門家に判断されるようなことでも、安倍首相の合憲であると言う法的根拠の無いむちゃくちゃな解釈変更による発起で、政治的には実現しうる政治であるということを、安倍首相が身を持って私たちに証明してくれたとも言える。

 だから、政治的なアウトプットとそれが排出される過程を見る限りにおいては、安倍政治は、民主主義を標榜しつつ行政はもとより立法に関してすら思い願うことは実現できるという事とその過程を見れば、結果として、すべてのことが他の一切の手続きを経ず単独で専断できる独裁政治となんら変らないということにはなる。

 改めて独裁政治というものを漠としてとらえるなら、それはかっての絶対王政における王の政治であり、日本で言えば、もしかしたら織田信長や徳川家康がそうであり、戦前の一時期天皇絶対の日本の政治がそうであり、目を外に向ければナチ政権下のヒトラー、スターリン下のソ連、文化大革命下の中国、ポル・ポト下のカンボジア、現代で言えば、金正恩の北朝鮮、そしてもしかしたらトランプ大統領下のアメリカの政治が急激に独裁国家に変身しようとしているのかもしれない。言い換えると絶対者と定められた者の行動判断には反対する者の力が作用しないか作用しても無力化される機能がそなわっている政治が独裁政治と言うことになる。

 むしろ暴力と血まみれで人民支配を全うする通常の独裁政治を超えて、安倍政治は暴力を使わず、民主主義を標榜し、自由選挙では圧倒的に支持を受けながら、政治権力を掌握した者は憲法すら超越できる政治、しかもそれを既存の法体系の中で合法かつ合憲と言い募ることが許される政治、違法というがん細胞が法体系という生体の中で、法体系が有する違法を排除するはずの免疫能力を無効化させてしまう能力すら持ち合わせている安倍政治は、新独裁政治、あるいはスーパー独裁政治と言い換える必要性が生じているのかもしれない。(以降安倍政治をスーパー独裁政治と言う)