重村智計(早稲田大学名誉教授)

2007年2月11日、北京空港に到着した金正男氏とみられる男性(共同)
 北朝鮮の故金正日総書記の長男、金正男の動向は、毎日弟の金正恩委員長の手元に届けられていた。金正男は、北京やマカオ、香港、シンガポール、マレーシアによく出没した。必ず中国機関のボディーガードが守っていた。北京やマカオは安全だった。シンガポールも、厳しい警察国家で北朝鮮の工作員は、必ずマークされた。

 シンガポールでは、私のゼミの学生の父親が借りた高級マンションの隣に住んでいた。若い女性と一緒にいる姿が、よくエレベーターで目撃された。1カ所に長くは住まず、3カ月か半年おきに部屋を変えていた。暗殺の危険は、本人も承知していたのだ。欧州でも、フランスやオーストリアで、暗殺の危機に直面した事もあった。

 中国政府とシンガポール政府は、北朝鮮の大使に「我が国では不祥事を起こしてはならない」と警告していた。怪しい工作員が頻繁にうろついていたからだ。大きな影響力はないのだから、殺す必要はなかった。

 それなのに金正男は2月13日、マレーシアの空港で暗殺された。マレーシア警察によると、二人の女性工作員が毒ガスで殺害したという。毒針は間違いだった。韓国の報道は信用できない。金正恩委員長の指示が無ければ、北朝鮮の工作員は暗殺を実行できない。

 金正男は、なぜこの時期に殺害されたのか。中国に伝えられた情報では、きっかけは昨年7月の駐英北朝鮮公使の、家族全員での韓国亡命だった。北朝鮮外交官は、家族のうち少なくとも一人は、人質として平壌に留め置かれる。ところが、駐英公使は「人質」の子供二人を、平壌からロンドンに出国させた。

 「人質の出国」は、金元弘・国家保衛相の許可無しには不可能だ。数千万円の賄賂を手渡した。ロンドンの北朝鮮大使館にも、外交官を監視する秘密警察高官がいる。彼にも千万円単位の賄賂が手渡された。こうして秘密警察の警戒を解いた。資金の一部は、韓国の情報機関から提供されたと、金正恩に報告された。

 海外の秘密警察要員に帰国命令が出されたが、半数が帰国せず逃亡した。帰国すれば、処刑される。逃げるしか無い。さらに驚愕すべき報告が届いた。海外に派遣の秘密警察要員が、韓国情報機関と接触し資金を手渡されていた。金正男と韓国情報機関の接触情報も届けられた。

 これは、真実かニセ情報かは定かではない。指導者の信頼を失った秘密警察が、指導者に取り入るために報告したのかもしれない。この報告が金正男暗殺への、引き金になったという。

 新聞記者や朝鮮問題の専門家には、「金正恩体制は安定して強固だ」と断定する人が少なからずいる。それが間違いである事実が、今回の暗殺で確認された。安定していれば、暗殺の必要は無い。

 金正男暗殺では、いつもテレビに登場する在日のコメンテーターが姿を消した。北朝鮮に遠慮して「金正恩委員長の指示だ」と言えないのだろう、とのウワサが飛び交っている。