星野哲 (立教大学社会デザイン研究所研究員)
 
 看取り、弔ってくれる他者がいない、「一人暮らし世帯」が増加している。そんな中で繁盛する「終活ビジネス」だが、社会で受け止めることも必要になる。

 「終活」は、2009年に週刊誌がつくった言葉だ。それがいまや金融、流通、旅行業など様々な業種が参入する一大市場となった。タブー視されがちだった死にまつわる行動が、手軽な言葉により、「みんなもしていること」という安心感が生まれ、動きが加速した面はある。また、経済産業省が2011年に「ライフエンディング・ステージ」という造語でレポートを発表し、老後から死後までを一体とした市場の形成を促したことも背景にあるだろう。だが、やはり時代に合ったからこその広がりだった。

年齢別人口の推移と将来設計  (出所)2010年までは国政調査による実績値。2015年以降は、国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口」(2006年12月推計)の出生中位・死亡中位仮定による推計結果

2030年の死亡場所別の死者数推計  (出所)2004年までの実績は厚生労働省「人口動態推計」。2007年以降の統計は国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料(2006年度版)」から推定。自宅や病院以外の「その他」で亡くなる人が2030年には47万人にものぼると国は2006年に予測した。サービス付き高齢者向け住宅の建設などが進むが、少なからぬ人を「地域」で看取る必要があるだろう。

 時代とは、一言でいえば「跡継ぎ不在」「おひとり様」社会の到来だ。少子高齢化や晩婚化、生涯結婚しない非婚化(2030年には男性の30%、女性の23%が非婚と予測)などで、子どもがいない人生を歩む人が増えている。2010年の国勢調査では一人暮らしが全世帯に占める割合が32・4%と、「夫婦と子どもから成る世帯」(27・9%)を初めて上回った。近代日本史上、経験したことのないステージに私たちは足を踏み入れている。

 高齢者に着目すると、2013年の高齢化率25・1%は、2025年には30%を超え、2060年にはほぼ40%になると国は予測する。65歳以上の高齢者が子どもと同居している割合は、1980年にほぼ7割だったが、2012年には42・3%に。一人暮らしの高齢者が確実に増えていく。

 すると、自身の死を考えたとき、葬儀や納骨から始まり、電気・水道など各種契約の解除や遺品整理といった様々な死後事務処理を誰が担うのかという問題が浮上する。誰が人生の最終章を支え、看取り、弔ってくれるのか。その担い手の不在に直面する人々が増えていく。子どもがいても、貧困・格差のため経済的自立が困難で、たとえば葬儀や墓の購入を子どもには頼れないというケースも出てくるだろう。

 終活には、自身の最期を飾るべく「自分らしさ」を演出するとか、人生の「棚卸」をすることで残りの人生を充実させるといった積極的、自発的な一面がある。前例のないステージだからこそ、伝統や慣習に縛られずに動けるのだ。だが、自らが動かざるをえない状況があることも否定できない。

 終活の先駆け的な動きは1990年ごろから目立ち始めた。戦後、地方から都市へと流れた多くの人々が、都市部で新たな「家」を興した。多くは核家族で、「家」を継ぐ子がおらず、その老後が意識され始めたころだ。

 「娘ばかりで墓を守る子がいない」「墓は準備したが、誰が私の骨を墓まで運ぶのか」─。そんな課題に直面した人たちが生み出したのが、継承者がいなくても利用できる永代供養墓や合葬墓、樹木葬であり、死後事務処理などを家族以外の第三者に契約で委ねる生前契約システムだった。助け合いの色合いが濃かったといえる。

 国は死後のことに関して、ほとんど「家族」に頼り切ってきた。その家族の機能が揺らぎ、同時に死者が増え続ける(現在の年間死者数は約125万人。2030年には160万人)なかで、課題への挑戦から始まった終活が市場を巻き込み、もしくは市場に巻き込まれながら、その裾野を広げたのは当然の流れだった。

 だが、私は市場中心の終活には疑問を抱く。経済力で利用できるリソースが規定される市場に頼りきることには違和感がある。市場からサービスを購入することに目を奪われ、「損か得か」「合理的か効率的か」といった視点にとらわれないかとも懸念する。

もちろん、医療や介護など福祉分野に市場原理を部分的に導入することで、効率的で質の高いサービスを生み出す準市場は有用だろう。準市場の成否は、公的規制がカギといわれるが、現在の終活市場はその「公」が弱い。たとえば葬儀をめぐる消費者トラブルが絶えないのは、規制がほとんどないことも一因だろう。その弱点を克服することが欠かせない。

 それは、死を個人に委ね切るのではなく、社会で受け止める「死の社会化」の考えにつながる。葬送や死後事務処理を社会的に支える仕組みをつくることで、だれもが死後のことを心配する必要をなくす。たとえば公営墓地を増やしたり、主にNPOが担っている生前契約に公的基準を設け、その信用力を高めて利用しやすくしたりする。

 熊本県が3月に発表した、墓地行政に関する報告書はこの点で注目される。これまで公衆衛生面からかかわってきた墓地について、老後の諸課題と同様に「生涯を通した安心の実現に向けた一連の課題」と位置づけた。単身世帯や家族・地域が守れなくなった遺骨を最後は行政が守るセーフティネットの視点での墓地整備にも言及する。

 報告書も指摘するように、老後と死後の課題は一連だ。看取りは、介護など生活支援の延長線上にある。終活が死後のみを対象にするのではなく、人生の終章と深くかかわるものだという、当然の認識、事実と向き合う。それが、死の社会化の第一歩だと思う。

 いうまでもなく人は関係性の中に生きている。死はその関係性に大きな変容を迫る。終活には関係性の再認識や「縁」の視点が不可欠だと考える。基本的だが、家族や周囲の人々との対話を通じて関係性を再認識する。同じ合葬墓に入る者同士が生前から交流する「墓友」や、遺産を社会活動に遺贈することで自分の後ろにつながる「命」と関係を築くなどは、血縁・地縁とは異なる、終活が結ぶ選択縁だ。いずれもどう生きてきたか、最期までどう生きたいかを考え、行動することと不可分だろう。

 いま国は診療報酬改定や介護保険運用の見直しなどで、医療・看護、介護の在宅化を進める。現在、死者の8割は病院で亡くなるが、「地域」に看取りの場が委ねられていく。

 訪問医療・看護の態勢が不十分な地域は少なくない。だが、在宅化は地域の人々同士の関係性を見直し、再構築する契機ととらえることもできるのではないか。お互いにどう支え合うかを終活の一環として位置づける。地域はどこかの誰かではなく、自身が参画してつくるものだ。宮崎県では10年前、一人暮らしが難しく、施設や病院にも入れない終末期の人を地域で支えて看取る場として、民間のケア付き共同住宅「ホームホスピス」を住民らが協力して始めた。全国に広がりつつある。

 終活を個人の死への準備にとどめず、生き方や、暮らしやすい社会のありようを考える契機につなげたい。