渡邊大門(歴史学者)

 戦国大名と僧侶とは、切っても切れない深い関係にある。なかでも禅宗の一派である臨済宗は室町幕府の庇護を受け、その教えが地方に伝播すると大名たちから熱烈な支持を受けた。やがて臨済禅は、積極的に政治権力とかかわりを持つようになる。
 僧侶の役割は、実に多岐にわたる。その一つは、教育者としての役割である。僧侶は仏教だけでなく、儒学などにも通じた知識人であった。儒学は個々人の道徳的修養と徳治主義的政治を重視し、まさしく帝王学と呼ぶにふさわしい学問である。大名にとって、必須の教養であった。兵法書として知られる、中国の古典『六韜』『三略』も読まれた。

 もう一つは軍配者として、出陣の日取り、戦勝祈願など呪術的な役割を担ったことだ。それは戦闘方法を指示するというよりも、宗教的な役割により戦争に貢献したといえよう。また、陣僧は従軍して、戦死者を弔う役割を担っている。なお、「軍師」という言葉は戦国時代には存在せず、近世以降に用いられたものである。

 僧侶は大名間の交渉において、和睦交渉などの役割を担当した。世俗に無縁の僧侶なるがゆえ、果たせる役割であった。その交渉の範囲は国内に止まらず、語学力を生かして、中国や朝鮮との外交文書の執筆を担当したほどである。

 なかでも、武田信玄と岐秀元伯、快川紹喜、上杉謙信と天室光育、伊勢宗瑞(北条早雲)と以天宗清、徳川家康と南光坊天海、金地院崇伝、毛利輝元と安国寺恵瓊などの例が非常に有名である。

 こうして僧侶は戦国大名のブレーンとなり、陰で大名権力を支えていたのであるが、それは今川氏の場合も同じであった。次に、今川義元を支えた太原崇孚雪斎を取り上げることにしよう。

 太原崇孚雪斎(以下、「雪斎」と略)は、戦国時代に今川家に仕えた、臨済宗妙心寺派の僧侶である。単に、号である雪斎として呼ばれることが多い。

 雪斎が駿河国に誕生したのは、明応5年(1496)のことである。父は庵原左衛門尉、母は興津氏の娘で、両親は今川氏の重臣として仕えていた。その血筋は、極めて良かったといえるであろう。

 雪斎は9歳頃に出家し、10歳で駿河国富士郡(富士市)の善得寺に入山した。同寺では九英承菊と称し、琴渓舜のもとで学んだ。これが雪斎の修行時代の始まりである。