談・吉永みち子(ノンフィクション作家)
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吉永みち子 1950年生まれ。東京外国語大学卒業。85年、「気がつけば騎手の女房」で大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞。テレビコメンテーターとしても活躍。
 

 女は終活にハマっているわけではなく、これまでと同じように目の前に現れた課題に取り組んでいるだけ。団塊の世代の女たちは、ひと世代前の女たちが、子どもが独立した後の50代で母親としての役割を失って「空の巣症候群」という状態に陥ることを見てきた。

 男たちはそのころ、まだ会社の肩書きという「固有名詞」で生きることができたが、女たちは、ひとりの人間としてどう生き切るかを考え始めた。男よりひと足先に個人としての自分はどう生きたいのかと考えた女たちが、60、70歳を迎え、今度は自分らしい生き方の「終わり」を考え始めた。

 私たち団塊の世代の女は、「一番現実にムカついてきた世代」。ずっと、心のどこかで違和感を持ちながら生きてきた。学生時代は、戦後教育のもと「男女平等」と教えられてきた。でも社会に出てみると、それは嘘で、働き口はなく、多くの女は夫の家に入った。

日々1人で決める女と決められない男


 男は、なぜか自分の最期は妻が看取ってくれると思っているみたい。平均寿命も女の方が長く、男には死の直前も死後のことも人任せで現実感がない。だから、なぜ女たちが自分の人生の終わり方や死んだ後のことを考えるのかなんて理解できないんだと思う。

 女がスーパーの買い物で悩む姿を「些細なことで」と、男は馬鹿にしてきた。その場で安い材料を発見し、組み合わせ方や無駄のない利用法を考え、食卓に完成品を並べるまで、すべてを実は自分でゼロから決定しているのに、「俺たちはもっと大きな仕事を動かしている」と。でも、それは会社の方針に従っているだけ。自分では何も決めていなかったことに気がついていない。錯覚から覚めると何もできなくなっている自分に気づく。

 よく、「女房が俺と一緒の墓に入りたくないと言う。理解できない」と言う男がいるけど、女からしたら、なんで? と不思議。両家の結婚式から始まり、女は名残の家制度の中で、ずっと生きてきた。核家族になっても家の行事や介護は嫁の役割。死んだ後までも、自分のルーツがない、見ず知らずの人がたくさんいる夫の家の「先祖代々の墓」に入って気をつかうのが、当たり前とはなかなか思えない。

 逆に男に聞きたい。自分が女房の実家の先祖代々の墓に入れって言われたらどうですか? そういう想像力を持てることがやさしさなんだけどね。

 団塊の世代は、数が多いからこそ常に多くの問題に見舞われてきた。小さい頃は幼稚園が足りず、受験や就職では「狭き門」と言われた。墓が足りないなんて「またか」という話。そこに少子化がセットになってきたから大変。

 私たち団塊の世代は、親を看取った最後の世代で、子供に看取られない最初の世代になるんだと思う。それなのに、財産を子供に残すという旧世代の価値観に縛られていたら、とんでもないことになるんじゃないだろうか。自分の財産を処分すれば、自分の最期は自分で決めることができる。処分できる財産がない人に、社会保障の恩恵が厚く回るようにもなる。

 本当は、人生の終わり方は女が女同士で考えるのではなく、想像力のない男であっても、理解不能と対立しないで、一緒に考えたいテーマ。考えなければいけないテーマなんだと思う。

(文・Wedge編集部)