元週刊朝日編集長 川村二郎(かわむら・じろう)

 自分たちを「天下の朝日」と勘違いしていなかったか?

 読者や広告主を見下していなかったか?

 1989年5月、『週刊朝日』編集長になって「どうすれば雑誌が売れるようになるか教えて下さい」と訪ねたのが、中條高徳アサヒビール副社長だった。

 中條さんは陸軍士官学校の最後の期で、敗戦後に学習院に入学し、卒業してアサヒビールに入った。生っ粋のアサヒビール人として、メインバンクの住友銀行副頭取からアサヒビール社長になった樋口広太郎氏とコンビを組み、「スーパードライ」をヒットさせ、倒産寸前のアサヒビールを建て直した。経営者として押しも押されもしない存在となっていた。

 そのころ我が『週刊朝日』は司馬遼太郎さんの連載「街道をゆく」があり、井上ひさし、大岡信、大野晋、丸谷才一の、言葉と文章の4人の泰斗が読者の質問に応える「日本語相談」のページがあった。今からは想像もつかないほど贅沢な内容で、部数も今の約3倍、45万部あった。

 しかし同じ読者層を狙う『週刊文春』は約60万部、『週刊新潮』は五十五万部前後である。なんとか50万部突破というのが『週刊朝日』編集部の悲願だった。そこで中條さんの門を叩くことになったというわけである。

 陸軍士官学校出身の中條さんは親しい人たちから「閣下」と呼ばれ、鍛えて固くなったふくらはぎを自慢にしていた。閣下はまず、こういう話をされた。

 ─アサヒビールにも、ドイツの大学に留学し、農学博士号を取ってくる社員がいる。帰ってきて、新商品を作る。しかし、売れない。すると、

 「うちは営業が弱いからなあ」

 と、営業のせいにする。

 それでも売れないと、

 「いいものを作っても、今の日本人は味覚が落ちているから、わからないんだ」

 と言うようになる。

 ─そういう話をしてから中條さんは、

 「たかがアサヒビール風情でもそうなのだから川村さん、難しい入社試験をなさる朝日新聞社では、なおさらそうだと思って、申し上げる」

 と言われ、座り直すとこう言われた。

 「そこそこの人間がいて、そこそこの物を作っているのに売れないのは、どこかでお客様を見下ろしているのではありませんか」

 実は、閣下の陸軍士官学校の同期生に、朝日新聞で販売一筋を歩き、専務取締役になった前沢健則さんがいた。前沢さんは職業軍人の家に生まれ、陸軍幼年学校から陸軍士官学校に進み、敗戦後、一橋大学で学び直し朝日新聞社に入った。

 中條閣下は前沢さんと親しかったから、私などよりはるかに、朝日新聞社の内情に通じていたわけである。そうとは知らず閣下を訪ねた私はうかつと言えばうかつ、しかし幸運と言えないこともなかった。とにもかくにも「お客様を見下ろしていませんか」という言葉は胸に刺さった。

 「お客様を見下ろす」とは、とりも直さず「傲慢」ということである。思いあたることが多々あったからである。

社長はいつも途中退席

 私が社会部から『週刊朝日』に異動になったのは1975年だが、そのころ社会部には読者からの紙面についての苦情や批判の電話に、

 「あなたのような人には、読んでもらわなくていいッ」

 と言って電話を切る記者がいた。

 新聞が購読料と広告収入によって成り立っていることを知っていれば、口が裂けても言ってはならないことである。しかし「天下の朝日」「大朝日」と言われることに慣れてくると、「読者に読んでもらっている」という意識が薄れ、「読ませてやっている」と思うようになるのかもしれない。

 これは編集長になって何か月かして聞いたことだが、大阪の料亭で司馬遼太郎さんと会った朝日のN社長が司馬さんに、『週刊朝日』に「街道をゆく」を書かせてやっていると、とられかねない発言をし、女将は肝を冷やしたそうである。

 週刊誌は毎週毎週どれだけ売れたか、わかる仕組みになっている。編集部員は買ってもらうことがどんなに大変か、読んでもらうことがいかに難しいか、知っている。編集部にかかってくる電話の向こうにはお客様のいることを承知している。市場経済の風にさらされているからである。

 私は1981年から「プロ野球、野村克也の目」を書くようになったが、電車の中でこのページを開いている人を見ると、

 「それを書いたのは僕です。ありがとうございます」

 と、最敬礼したくなったものだ。

 当時のデスクの一人は、朝日新聞と『週刊朝日』の違いをこう言った。

 「新聞は路線バス、週刊誌は流しのタクシーなんだよ。バスは客が乗っていなくても、時間がくれば走るけど、タクシーはそうはいかない。カラで走っても意味がないから、客のいそうなところを探して走るんだよ」

 雑誌に16年いて1991年に新聞の世界にもどると、編集委員たちが読まれる紙面をどう作るか、議論をしていた。聞いていると、「読ませてやる」という意識が感じられるので、口を挟むと、

 「川村さん、そんなに読者に迎合する必要はないんですよ」

 と言われることがあった。

 週刊誌を作っていると、どうすれば読者に迎合できるか、毎週ない知恵を絞らなければならない。結局わからないままに終わるのだが、私は新聞の世界だけを生きてきた編集委員には、こう言うことにしていた。

 「私がキャバクラの経営者なら、ホステスに『もっと客の体を触わってやれ。客にもっと触わらせてやれ』と、迎合をするように言います。けれど雑誌も新聞も、与えられた手段は活字と写真です。活字と写真だけで、どうやって読者に迎合するんですか。うまい方法があったら、教えて下さい」

 話が前後するが、編集長になると毎年1月の末に帝国ホテルでおこなわれる「朝日賞・大仏賞」の授賞式とパーティーに招ばれる。朝日賞は科学、芸術、文化の分野で業績を残した人を表彰するもので、受賞者は何年か後に文化勲章を受章することが珍しくない。『天皇の世紀』を書いた作家、大仏次郎の名を冠した「大仏賞論壇賞」も、朝日賞に負けず劣らず権威のある賞である。

 私が招ばれるようになった1990年代に入ると、朝日の幹部の祝辞が長く退屈で、

 「朝日新聞では、話の下手な人しか出世しないんですか」

 とからかわれ、返答に困ることがあった。

 それより驚いたのは、社長が毎回、パーティーの途中で退席することである。こんな礼を失したことはあるまい。

 客を自宅に招いておいて主人が途中でいなくなれば、客は「バカにするな」と言って、二度と来なくなるだろう。

 それだけではない。N社長をはじめ歴代の社長はパーティーの間、自分から名刺を配って回るという普通のことを、まずしない。じっと立って、お客様が挨拶に来るのを待っている。その周りを役員が囲み、その周りに局長や部長クラスが群がっている。お客様の相手をしているのは、ヒラの担当者である。そういう光景が、毎年見られた。異様と言うしかない。

 私は『週刊朝日』でお世話になった作家や写真家やデザイナーに御礼を言わなければならないので、定年後も毎年出席した。パーティーの事務局には、

 「社長が途中で退席するのは失礼だよ。ホストがお客様を見送るのは、最低の礼儀だろう。読売のドンは、そうしているよ。当たり前のことをしないから『朝日は傲慢だ』と言われるんだよ」

 と言い続けてきた。

 社長本人に直接、言ったこともある。

 しかし、聞き入れてもらえなかった。少なくとも去年のパーティーまでは、社長は途中で退席した。今年はどうだったのか、私は確かめることができなかった。昨秋、マスコミ業界の雑誌で、

「朝日の紙面は読むところが少ない。編集委員の書く文章は稚拙すぎる。政治部は、記者にメモではなく原稿を書かせるようにすべきだ」

 と書いたことが「誹謗中傷だ」と朝日新聞社広報部に言われ、社友資格停止の処分を受けた。

 社友資格には授賞式や宴の出席もあるらしく、今年は招ばれなかった。そのため、木村社長が途中で退席したかどうか、見届けることができなかった。

 気がかりなのは、「朝日賞・大仏賞授賞式」のパーティーに出席下さる顔ぶれが年々寂しくなっていることである。ある時期まで、この宴に招かれることは一種の名誉と考えられていたフシがある。特にデザイナー、作家といった文化にたずさわる方々の間には、そういう意識があった。かつて朝日新聞社が有楽町にあったころ、最上階にあったレストラン『アラスカ』に、朝日の学芸部の記者に招かれることは、

「文化人と認められた証拠」

 と言われていた。

 それほど朝日新聞の信頼度が高かったと言うことになる。私には、朝日のパーティーが年々寂しくなることは、朝日への信頼度が低くなった証拠のように思われてならなかった。

 しかし社長が途中で退席するようなことを続けていれば、そうなるのはしかたのないことである。

「広告は選ばせて頂く」

 以前、経済部の編集委員から、

「残念ながら朝日新聞社には、ガバナンスの能力がないんです」

 と言われたことがある。

 日本を代表する世界的なメーカーが、社長が交代したので朝日の社長に御挨拶にうかがいたいと、朝日の秘書課(室?)に連絡をした。すると電話に出た秘書が、

「社長は日程が詰まっていて忙しいので、受付に名刺を置いていって下さい」

 と言ったというのである。

 経済部の編集委員は、

 「それを知った経済部長があわてて走り回ってことなきをえましたが、朝日にはこの種のことが多いんです。こんなにガバナンス能力のない会社はないでしょう」

 と言っていた。

 その結果、最もワリを食うのは広告局員である。

 日航がまだ半官半民の会社だったころ、編集の幹部(経済部出身)が広告担当取締役になった。大広告主の日航に挨拶にゆくにあたり、広告の日航担当者が事前に「日航にいったら、御巣鷹山の事故の話はしないで下さい」と、何回も念を押した。

 ところが広告担当役員は開口一番「ジャンボ機が落ちた時、私は○○省の記者クラブにいて」と話し始め、担当者は翌日、お詫びにゆかねばならなかった。

 『GLOBE』という別刷りを発行することが決まり、朝日新聞社は社長の名で広告主を招いてパーティーをした。この別刷りはある最高幹部の発案で作ることになったと聞いているが、社長は講談社の社長などを前にして、

 「この紙面は特別なものです。広告は厳選させていただきます」

 と挨拶した。

 「広告主がどの新聞雑誌に広告を出すか、媒体を厳選する時代ですよ。朝日新聞以外、こんなことを言う社長はいませんよ。社員がかわいそうです」

 と翌日、電通や博報堂の知り合いから電話をもらった。朝日の広告マンたちが広告主の会社にお詫びして回ったのは、言うまでもない。

 このように目や耳を疑うような朝日の傲慢な言動を見てきた私のような者には、従軍慰安婦報道に始まる一連の朝日の対応を見ていると、

 「朝日、とくに編集部門の威張りくさる体質は直りそうにないぞ。白洲正子さんに『朝日は偉そうで嫌いよ』と言われてもしかたがないな」

 と思われてならない。

 まず8月5日付朝刊1面の、

 「慰安婦問題の本質、直視を」

 と見出しのついた、杉浦信之・編集担当の一文である。一読して、

 「これは、朝日批判の火に油を注ぐことになるのではないか」

 と思った。

 お詫びなのか、言い訳なのか、はっきりしないからである。

 筆者が何を言いたいのか、始めに決めなければ、文章にはならない。冒頭の「日韓関係がどうの」「韓国の反発がこうの」ということは、いらない。問題は、朝日新聞の従軍慰安婦報道が事実に基づいたものだったかどうかである。焦点をそこに絞らなければならないのに、いきなり日韓関係の話から始めたのはどういうつもりなのか。

 冒頭から26行目に、

 「一部の論壇やネット上には『慰安婦問題は朝日新聞の捏造だ』といういわれなき批判が起きています。」

 というくだりがある。

 批判があるのは事実である。しかし「いわれなき」は杉浦担当の感想である。事実と感想を一緒にしてはいけない。

 これは事実を伝えるのが使命の、記者のイロハである。編集担当取締役と言えば、記者を束ねる頭領である。記者の頭領が記者のイロハを知らないとは、どういうことだろう。

 中をめくると、「検証」と称するものがあった。検証と言いながら、検証をした記者の名前がない。検証は誰がしたのか、わからない。普段の紙面には、

 「こんなに短い記事なのに、3人の署名がある。取材と執筆はどうやって分担したのだろう。いっそ『この項はA記者。こちらはB記者』と、分けたほうがいいのではないか」

 と思うことさえあるのに、こういう大事な検証をした記者の名がないのは、どういうことか。

 おまけに「他紙でも報じていた」とか、「研究が進んでいなかった」とか、もし私がデスクをしていたら、

 「顔を洗って出直せッ」

 と言って、原稿を紙クズ籠に捨てたかもしれない。

 他紙や研究の話は誇りのある者なら決して書かないことである。私が社会部にいたころは、

 「他の新聞では許されても、朝日では許されないことがあるんだ」

 と、先輩に耳にタコができるほど言われた。

 それをカン違いした記者が「俺は朝日だぞ」と威張るようになったのだが、誇りがあれば、

 「他紙は他紙。朝日は朝日」

 と思うはずである。

 それぞれの新聞社が「うちはうち。よそはよそ」と切磋琢磨し合ってこそ、健全な言論機関と言うものではないか。「朝日以外の新聞も従軍慰安婦を記事にしていた」というくだりを読んで、喜んだのは他国の戦争にもレイプのようなことがあったという意味のことを言って批判された橋下徹・大阪市長と、従軍慰安婦問題に火をつけ、3月いっぱいで朝日を早期退社した植村記者くらいではなかろうか。

 検証記事を一字一句検証し直し、このくだりは削除してもらいたいくらいである。

経営陣の傲岸不遜

 私は9月11日の朝日新聞・木村伊量社長と杉浦編集担当の記者会見をテレビで見て、ここに書いてきたようなこと、たとえば事実と感想を分けずに書くな、といったことを編集担当に求めるのは酷であることを知った。ああいう場では、潔く俎板に乗って、どんな質問にも怯むことなく言葉を選んで答えなければならない。

 しかし杉浦担当には、その覚悟ができていなかった。マイクを持つ手が震えたのは、その証拠だろう。言語感覚が豊かにも見えなかった。頭領の資質に欠けると思われても、やむをえまい。

 8月5日の文章と同じで、何のための会見か、わかっていないのではないかとさえ、私には思われた。書きたいこと、書くべきことがはっきりしないものは、文章とは言えない。それと同じように、語るべきことがはっきりしないままに会見をすれば、朝日新聞のイメージは悪くなるばかりである。

 1989年に私が週刊朝日編集長になると同時に起きたのが、朝日新聞のサンゴ事件だが、その時に記者会見をしたA広報担当役員は政治部の出身で、有楽町時代から社会部では「威張りすぎる」と言われていた。会見の時のイスの座り方からして傲岸不遜で、

「お前らに話してやる」

 という感じがして、見ていてハラハラした。

 会見にきた記者、特に雑誌記者の間ではすこぶる評判が悪かった。後世、9月11日の会見はA担当と同じように、悪しき例として記憶されなければよいがと願うばかりである。

 東電福島原発の吉田所長(故人)の政府事故調に対する証言の真相は、ヤブの中ではないかと、私は思っている。

 吉田所長はあの時、日本人何百万人かの命を救うためには、自分を含めて何十人かが命を捨てなければならないと、覚悟を決めたと私は思う。ヒューマニズムのために、最もヒューマニズムに反する決定を強いられたわけである。

 そういう時、現場の人たちに何を、どういう言い方で伝えるのがよかったのか、息をひきとる間際まで考えておられたろうと想像する。事故調の聴取に対しても、生きるか死ぬかの瀬戸際にある時に言ったことを、一語一句誤りなく思い出せと言うのは、無理である。無茶である。

 問題の記事を書いた一人、K記者がいかに優秀な記者か、私は知っている。記事は書いても、見出しは整理という別の部署が付けるものであることも知っている。

 しかし、あの記事を受け取ったデスクが何と言ったのか、知らない。あの見出しにデスクやさらに上の者が異議を唱えたのかどうかも、知らない。知らないことが多すぎるので、意見をひかえる。ただし、これだけは書いておきたい。K記者にだけ責任を負わせるな、ということである。

 彼の〝スクープ〟がなければ、吉田調書が世に出ることはなかっただろう。どんなことがあっても、そのことを忘れてはならない。朝日新聞社は彼の功績を覚えていなければいけない。

 ついでと言っては何だが、夕刊紙などは彼の所属する「特別報道部を廃止しろ」という論を唱えているようである。特別報道部員の中には、早くから、

 「私たちは何も特別なことをしていません。他の記者と同じように、普通に取材をして書いているだけです。『特別報道部』なんて、読者の疑問を持たれるような看板は、おろすほうがいい」

 という記者がいる。

 まともな記者はいるのである。

 読者の中には「朝日は信用できない」と思っている人がいるようだが、「フロントやベンチはアホでも、グラウンドには一生懸命プレーしている選手のいることを忘れないで下さい」とお願いしたい。

広告問題でコロコロと態度を…

 池上彰さんの『新聞ななめ読み』を何日か載せなかったのは、言語道断と言うほかない。

 「いつから北朝鮮になったのか。批判を許さない言論機関は、言論機関と言えるのか」

 と言ってやりたい。

 掲載を決めた時の説明も、説明になっていなかった。池上さんの文章のどういう言葉、書き方、表現が良くなかったのか、何の説明もなかった。具体的なことが何もなくて、

「載せなかったのは間違いだったので、載せることにしました」

 と言われても、「それは通りません。伝兵衛さん」と言うものである。

 朝日新聞はしばしば政治家や経済人を、

 「説明責任を果たしていない」

 と非難する。
 こういうものを載せれば、

「お前のほうはどうなんだ」

 と反発に遭うのは、予測できることである。予測しなかったとすれば、頭がどうかしている。頭を冷やし、一連の検証を再検証し、『新聞ななめ読み』はどこが問題だったのか、改めて説明してもらいたい。

 『週刊文春』と『週刊新潮』の広告を断った件についても、納得がゆくように説明してもらいたい。

 朝日新聞社広報部は『週刊新潮』宛て、8月28日に「抗議文」を出して、「訂正と謝罪」を要求し、9月2日には池上彰氏との問題で「申入書」を発送し、9月4日には『おわび』を出している。こんなに無方針、無定見、無節操では出版社を担当する広告マンが気の毒である。

 以上、朝日新聞がなぜ嫌われるか、私の体験を基に理由を書いた。編集担当は杉浦君からアメリカ取材の経験が豊富な、政治部出身の西村陽一君に代わるそうである。来年一月末の「朝日賞・大仏賞」授賞式とパーティーで、どういう挨拶をするのか。社長が途中退席しようとしたら止めるのか。今から興味がある。

 そういえば中條閣下に言われた肝心なことを思い出した。こう言われたのである。

 「アサヒビールはスーパードライで失敗したら、会社が失くなる瀬戸際にあったんだよ。朝日新聞のようなお金持ちは、そこまで追い込まれることはないだろう。お金に余裕があるうちは、本当の改革は難しいよ」

 閣下に異を唱えるのは失礼かもしれない。しかし私は、経済的に余裕がある今こそ、解体的出直しのチャンスだと思っている。問題は、出直しに必要な人材はいるのか、ということである。


川村二郎氏 昭和16(1941)年、東京・本郷生まれ。慶應義塾大学卒業。39年、朝日新聞入社。社会部記者、週刊朝日編集長、朝日新聞編集委員などを歴任。退社後も文筆活動を続けている。著書に『夕日になる前に だから朝日は嫌われる』『学はあってもバカはバカ』(いずれも、かまくら春秋社)など。