古谷経衡(著述家)



 16日に投開票された沖縄県知事選は、普天間飛行場の辺野古への移設に反対する翁長雄志氏(前那覇市長)と容認派の仲井真弘多氏(現職)の接戦とみられたが、蓋を開けてみれば翁長氏が約36万票、仲井真氏が約26万票と10万票という大差で翁長氏が勝利した。

 この事実は、普天間移設の是非で拮抗しているとみられた沖縄世論が、移設反対に大きく傾いていることを意味するものだ。

 選挙前、「ネット上で右派的、国粋主義的な言動を行う人々」=通称「ネット右翼(ネット保守とも)」界隈では、基地移設容認を掲げる仲井真氏への支持が圧倒的に強いという状況であった。

 彼らは、沖縄における反基地運動や集会を「反日左翼の仕業である」として、強い呪詛の対象として捉えている。加えて沖縄の米軍を「日本を護る存在」として捉え、在沖の米兵を悪者のように言うのは、「反日だ」と罵っていた。

 加えて、米兵による犯罪に対する捉え方も様々である。1995年に起こった米兵3名による「沖縄少女暴行事件」では、加害者の米兵ではなく、被害者の少女の側の素行に問題があった、とする意見も、ネット上では盛んに喧伝されている。

 在沖の米軍は日本を護る存在であり、米軍基地は日本に無くてはならない存在。それに対し反対するのは「反日」―。「ネット右翼」の在沖米軍と反基地勢力に対する評価は概ねこのようなものに終始している。

 「ネット右翼」がこのように、時として過激な「反基地」「反米軍」への敵意を剥き出しにするのはなぜなのだろうか。

「保守」と「ネット右翼」の違い


 私は、「保守」と「ネット右翼」を区別して定義している。

 まず「保守」とは、戦後日本の中で、全国紙「産経新聞」と、論壇誌「正論」を中心として(所謂「正論路線」)伝統的に自民党清和会(福田派)のタカ派的国家観を支持する人々の事を指す。言わずもがな、この「正論路線」のイデオロギー的骨子は「反共」と「親米」である。

 これに対して「ネット右翼」は、こうした「保守」の自民党的出自とは違う、全く別の場所=インターネット空間から発生したクラスタである。特にゼロ年代の初頭、2002年の日韓ワールドカップ前後(反大メディア、嫌韓国)からその傾向が顕著となったものだ。

 このように「保守」と「ネット右翼」はその出自からして全く異なっているにも関わらず、両者の主張は似通っている。なぜかといえば、現在「ネット右翼」の主張や見解は、「保守」の理屈にその多くが寄生しているからである。

 これは例えば、「保守」の論客が「中国脅威論」を唱えれば、ネット右翼が「支那人けしからん」、「日米同盟強化」を唱えれば「米軍基地に反対する人間は全員反日」という理屈になってネット空間に排出されている。

 前出した「ネット右翼」の在沖米軍に対する捉え方の多くは、保守のいう「米軍抑止力理論」に依拠している。ところが保守側は、「支那人がけしからん」「全部反日だ」などという過激で無思慮な物言いまではしていない。「米軍抑止力理論」には軍事的な裏付けがあるが、その部分はすっ飛ばして「沖縄が中国に占領される」などという突拍子のないタイトルのシュミュレーションのみが、なにか重大な根拠のようにネット空間を飛び回り、「反翁長」の潮流に結びついていた。

 なぜ「コピー」ではなく「寄生」なのか。それは、実のところ「ネット右翼」の言説というのは、「保守」と目される人々が出版したり寄稿したりする本や雑誌の詳細を読むこと無く、そのヘッドライン(見出し)のみを観て自説に採用しているからである。「コピー」は原文を引用する場合があるが、「ネット右翼」はそもそも原文を読まず、「保守」の言う理屈のヘッドラインと目次だけを見ている。

 だから本当は「中国脅威論」にも軍事的な分析や薀蓄が含まれているし、実際のチャイナ・ウォッチャー達の見識が縷縷含まれているのだが、そうした部分を一切無視してタイトルだけを拝借して「支那人けしからん」というふうになる。

 まこと「保守」から発信される情報の、そのヘッドラインにだけに寄生する「ネット右翼」のこうした行為を、私は「ヘッドライン寄生(見出し寄生)」と名づけている。


 「ネット右翼」は体系化された「保守」の理屈にそのまま寄生し、ヘッドラインだけをみて表現を過激に加工することで自身の理屈に採用しているきらいがある。

 つまりネット上で盛んに米軍を擁護し、それに反目する人々を「反日」と呪詛する動きが見られるのは、「ネット右翼」が寄生している宿主である「保守」が、「親米」だからに他ならない。そしてその「親米保守」の言う、ヘッドラインのみに寄生して、粗悪な「反日」の言説がひとり歩きしているという情勢だ。

問われる「保守」のカタチ


 ネット上には、「翁長氏が沖縄知事になれば、沖縄が中国の属国に成る」などといった俗説が百花繚乱である。翁長氏が知事になることが確定した今、「沖縄が中国の属国になる」が本当かどうかは厳密には分からないが、ネット上にある「中国の工作員が沖縄に忍び込んで、沖縄が人民解放軍に占領される」などという意見は突拍子もないシュミュレーションの一種であることは明らかだ。

 たしかに、中国の軍事費は毎年二桁の増加をみせており、不透明な部分も多く指摘されている。中国人民解放軍は特に空軍力と海軍力の近代化を急いでおり、現代戦に不可欠な無人機の開発も怠っていない。国産の航空母艦4隻建造の観測もある。

 南沙諸島、西沙諸島での中国軍とベトナム、フィリピンなどとの緊張と衝突は現実問題として起こっている。いまや世界第二位の経済大国になった中国に対し「中国脅威論」が展開されるのは無理からぬところだ。

 その抑止力として、沖縄に米軍を存置させるのが、日本の安保政策にとって必要不可欠だ、という理屈は非常にわかる。しかし一方で、反基地運動を展開し、米軍に嫌悪感を示す人々を「反日、中国の手先」と決めつけるのは如何なものだろうか。

 翁長雄志氏は、選挙戦の演説の中で「私は保守の政治家である」といった。本土の保守派が聞けば、「辺野古移設反対で日米同盟に亀裂がはいるというのに、何が保守だ!」と怒る人が大勢いる。しかし、その理屈はあくまで「親米保守」の理屈であり、多分翁長氏が言う「保守」の姿とは違っているのだろう。

 一般的に「保守」とは、「伝統や文化を守り、育てていく姿勢」と理解されている。沖縄から基地をなくし、沖縄が先祖から受け継いだ伝統的な土地を回復する、という主張は、おそらく沖縄にとっては「最も保守的」で「ナショナリスト」的な立ち位置なのかもしれない。

 沖縄戦末期の折、大田実中将は東京に向けた「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」とする決別電文を打電したことは余りにも有名である。

 沖縄戦では、軍10万、民間人10万余の、軍民20万人が死んだ。

 沖縄を本土決戦の時間稼ぎとする、という大本営の作戦計画の是非はともかく、沖縄と日本を護るために戦った20万の人々は、戦後の沖縄に「旧敵国」であった米軍の軍事基地を常設化することなのだろうか。

 死者の気持ちを忖度するわけではないが、私は違うと思う。沖縄に対する「後世特別ノ御高配」とは、米兵に「銃剣とブルドーザー」で接収された沖縄の先祖からの土地を回復し、沖縄の古来からの伝統と文化を守る強い「保守的立場」ではないのか。

 或いは、米軍基地の代わりに、強力な日本の軍隊を常駐させることも、重要な「後世特別ノ御高配」の一つであることは間違いないだろう。

 そういった意味では、翁長氏への支持に、革新勢力だけではなく自民党の一部が分裂して、沖縄の保守勢力までもが翁長氏を支援した事実を、本土の保守は深刻に受け止めなければならない。

 本土の「親米保守」にとっての「保守」とは日米同盟の維持と強化かもしれない。しかし、沖縄の「保守」とは、米軍基地の撤去と先祖から受け継いだ土地の回復だろう。この、沖縄と本土の「保守観」の違いが、いつも話をこじらせている。

 本土の「親米保守」の理屈に寄生しているに過ぎない「ネット右翼」の無思慮な物言いが、時として沖縄の人々を傷つけていると感じる。或いは「ネット右翼」の上流に位置する保守が、例え体系的な理屈であっても、沖縄の「反基地・反米軍というナショナリズム」に対し、時として軽んじる発言を行うこともまた、沖縄県民の感情を傷つける場合があると感じる。

 今回の沖縄県知事選挙は、辺野古移設を問うたもの以上に、「保守とはなにか」、という根源的な問いかけを行っている。沖縄にとっての「保守」とはなにか。沖縄にとっての「愛国心」とは。「保守のカタチ」がいま、沖縄から問われようとしている。