昨秋のことだ。長年にわたって拉致問題に取り組んでいるある人物からこんな相談を受けた。「拉致問題が動かないのでどうしたらいいのか。夫人外交がいいのではないかと思うのです。首相の昭恵夫人が北朝鮮に乗り込んで、ダメなら第三国で交渉するのです。横田早紀江さんにも同行してもらいます」。

北朝鮮による拉致被害者家族会の飯塚繁雄代表(中央)や横田早紀江さん(左)と面会した安倍晋三首相。拉致問題解決への決意を改めて示した=2017年2月22日、首相官邸
北朝鮮による拉致被害者家族会の飯塚繁雄代表(中央)や横田早紀江さん(左)と面会した安倍晋三首相。拉致問題解決への決意を改めて示した=2017年2月22日、首相官邸
 昭恵さんにはすでに合意を得ていたという。その提案を聞いたとき、「そんな簡単なことではない」とは思ったが、口にはしなかった。局面を打開するには水面下での交渉が必要であり、たとえ首相夫人が訪朝しても、ただの話題にはなってもそれだけのことだからだ。

 小泉純一郎元首相が2002年に訪朝したときも、1年ほどかけて水面下の交渉があり、そこである程度の合意ができていた。外交交渉は「こちら」の獲得目標もあれば「あちら」の意図もある。拉致問題でいえば、日本の目的は生存者の一刻も早い帰国であり、北朝鮮は国交回復の実現と経済協力である。ストックホルム合意からの日朝交渉で日本側に欠けていたのは、この課題を避けてきたことだと私は判断している。官邸にその意志がないからだ。

 この夫人外交について、日朝交渉にかつて取り組んできた自民党長老に相談をしてみた。「それはいいアイデアです。しかし日本側が本気だということを示す人物、たとえば今なら二階幹事長のような立場の政治家が同行し、金銭を提示しなければ動かないですよ」と言われた。要するに、首相の覚悟があるかどうかが問題だった。この計画はある筋を通して首相や官房長官にも伝わった。その結果は却下。官房長官の表現では「つぶした」。昭恵夫人の天衣無縫は話題にはなっても、実りあるものにはならず、むしろ批判を招くという判断だったのだろう。

 首相夫人外交を提案した人物への回答はこうである。北朝鮮への渡航自粛があること、さらに国際的に制裁があるので第三国での交渉も認められないこと、他に提案があれば教えて欲しいというものだった。こうして北朝鮮に対する「首相夫人外交計画」は一切、表面化することなく消えてしまった。昭恵さんはこうしたプランに易々と乗ってしまうところがある。

 沖縄県でヘリパッド建設をめぐって問題になっている高江に姿を現すことなど、よくいえば「腰が軽い」が、悪くいえば「軽率」と見られかねない。森友学園問題でも籠池夫人と問題発覚後も頻繁にメールのやりとりをしていたことが象徴的である。おそらく人を疑うことの少ない人間なのだろう。その美質が総理夫人という立場にあっては暗転することがある。「ある時の真、他の時の誤り」(モンテスキュー)である。