所功(京都産業大名誉教授)

 昨年8月、今上陛下が「象徴天皇としてのお務め」に関するお言葉の中で「2年後には平成30年を迎えます」と話し出された。しかも『文藝春秋』10月号によれば、「天皇は(宮中)参与会議の席で…『平成30(2018)年までは頑張る』と仰(おっしゃ)り、それまでに(譲位の)目途をつけてほしい、というお気持ちを伝えて」おられたという。

 あれ以来、「平成」という元号および次代の新元号への関心が高まっている。そこで今回は、そもそも元号(年号)とは何か、その来歴と今後の在り方などについて、史実と管見の一端を略述させていただこう。

古代中国から伝来した漢字文化


 人類が発明した文字には、表音文字と表意文字がある。アルファベットなど表音文字は一つ一つ音を表すにすぎないが、漢字など表意文字は一字一字が意味を表す。

 その漢字を発明したのは古代中国である。それを駆使することにより、儒学が記録され、仏教が漢訳され、法典が編纂(へんさん)された。しかも、その多くが日本に伝来している。
 そうした漢字文化の一つが年号(元号)にほかならない。古代中国では、前漢の武帝(在位BC141~BC87)が、それまで帝王の即位から何年と数えていたのを改め「建元何年」というような形で、年数の上に漢字の称号、すなわち年号を冠するようになった。

 その年号は、皇帝の勅定する暦に記され、統治国内だけでなく周辺諸国に頒(わか)たれた。そこで頒暦(はんれき)を受けた国々では、中国の年号をそのまま使っていた(使わされた)。後漢ごろから中国に朝貢していた「倭国」も、その例外ではない。

 しかし、大和朝廷(王権)により日本列島がだんだんと統一されてきた倭国では、まず5世紀初めころ儒学を、ついで6世紀中ごろ仏教を、さらに7世紀初めころ律令法を受け入れると共に、やがて独自の年号も定めて使おうとする独立意識が高まった。その結果、初めて作られたのが、譲位の新例を開かれた皇極女帝4(645)年の「大化」年号である。

 ただ、当時は強大な唐帝国の威力をはばかって独自の年号を公的に使うことが難しく、この「大化」も5年後に定められた「白雉」年号も広く用いられていない。しかし、7世紀後半、天智・天武両天皇のリードで中央集権的な国家体制づくりが進むと、ようやく文武天皇5(701)年3月「大宝」という年号が建てられた。しかも、その年号を冠した「大宝律令」と称する最高法典の中に、次のごとく明文化されるに至った。

およそ公文(公式文書)に年を記すべくんば、皆年号を用ひよ。

 それによって、これまで多く用いられてきた干支(十干十二支の組み合わせ)によるか、何天皇何年という表記が、ほとんどすべて「年号」で示されるようになった。この事実は、「天皇」を至上の権威と仰ぐ律令国家の全国民が、年号の公用を通じて統合される。と共に、中国王朝や朝鮮諸国などに対して、「日本」が名実ともに独立国家であることを堂々と表明できるようになった画期的な意味をもつ。