小林信也(作家・スポーツライター) 

 浅田真央選手が「引退」したと騒がれている。このニュースを小さな視野と大きな視野という観点から論考してみたい。

 テレビをはじめメディアの報道はすべて「小さな視野」で語っていないだろうか。ファンもまた小さな視野で浅田真央の引退を惜しんでいる。そこにひとつ、大きな茶番と戸惑いを感じる。

引退会見終了の挨拶で報道陣に背を向けて涙を拭う浅田真央選手
=4月12日、東京都港区の東京プリンスホテル
引退会見終了の挨拶で報道陣に背を向けて涙を拭う浅田真央選手 =4月12日、東京都港区の東京プリンスホテル
 浅田真央は、オリンピックや世界選手権などを頂点とする競技からの撤退を宣言しただけで、「今後はプロスケーターとして活躍する」と明言している。それを「引退」と表現するのは、アマチュアを前提にしていた時代からのフィギュア界の慣例ではあるが、もう現実とはそぐわない。引退という受け止め方に私はまず違和感を覚える。

 高校野球を終えて、プロ野球に入る選手を「引退」と呼ぶだろうか。高校野球界ではそれで実際、競技としての野球をやめる選手が少なくないから、小さな視野で「引退」と呼ぶことはあるが、大学やプロで野球を続ける選手を「引退」とは呼ばない。

 日本のフィギュアスケートは、オリンピックに出ることを選手と認め、それ以後のプロ活動を真剣に認めていない意識が現れている。

 「勝負がかかっていないから、競技ではない」というのはひとつの考え方だが、音楽の分野に例えたら、まだ無名の若いころ、「コンテストに挑戦して世界の評価を得て、演奏家としての登竜門をくぐる」というプロセスはある。だが、ひとたび演奏家として活動を始めたら、勝ち負けではなく、聴衆に感動や感銘を与える演奏ができたか、音楽性の豊かさ、深み、技術に裏打ちされた個性などが問われ、ものをいう。フィギュアスケートも本来は採点に縛られて終わるものではないだろう。

 浅田真央が真剣にフィギュアスケートと向き合うならば、これから「競技や採点、勝負」といった制約のないパフォーマンスの世界に歩み出す、さらに厳しいアートの世界への旅立ちを意味する。だから、過去の競技生活を回顧し、まだ二十六歳の若い女性に「引退」という烙印を押そうとする日本中の身勝手な意識を無責任だと感じるし、怒りも覚える。

 浅田真央がこれからどんな活動をするのか。できれば、芸能的な活動は最小限にして、本格的なプロスケーターとしての挑戦を期待してもよいのではないか。この十年でフィギュアスケートがゴールデンタイムで放送されるコンテンツになったようにプロのアイスショーが日本でもっと認知されるような活躍ができれば、浅田真央の次の生きがいにならないだろうか。その前提として、タレントが本業というイメージを払拭することが重要だろう。

 いまのメディアやスポンサー、広告代理店は人気スポーツ選手のタレント化に熱心だ。浅田真央がいまもフィギュアスケーターとして秘めている素質や可能性があるならば、彼女の人生を「大きな視野」でとらえ、その開花の舞台を創出するブレーンがいたら幸せだろう。