茶阿弥(ブログ「日韓近代史資料集」管理人)


 日本と韓国との間の竹島(韓国名、独島)領有権論争において、韓国側(韓国の政府、学者、マスコミなど)は、日本の領土である竹島を不法占拠しているという事実を認めるわけにはいかないので、「独島は韓国の領土だ」と言うためにありとあらゆる「うそ」(こじつけ、客観性を欠いた自分勝手な解釈)を繰り出している。その中から、本稿では「韓国は日本の竹島領土編入に抗議したくてもできなかった」という主張についてその、うそを明らかにしてみたい。

 日本が竹島を公式に日本の領土としたのは1905年の閣議決定(1月28日)と島根県告示(2月22日)を通じてだ。そして、竹島(独島)が日本領となったことを韓国政府中央が知ったのは、それからおよそ1年後の1906年5月のことだった。もし、韓国政府が日本の竹島領土編入に異議を提起するとすれば、それは1906年5月以降に可能となったということになる。

 ところで、その半年ほど前の1905年11月17日に日本と韓国(大韓帝国)との間では第二次日韓協約が結ばれて韓国の外交権は日本に接収されることとなり、韓国は事実上日本の保護国となった。第二次日韓協約は乙巳の年に締結されたので乙巳条約とも言われ、また韓国では「勒(くつわ)」を掛けるように強制的に結ばされたという意味から「乙巳勒約」とも言われる。

 この協約では、第1条に「日本国政府は、東京にある外務省により今後韓国の外国に対する関係及び事務を監理指揮する」と、また第3条には「日本国政府は、その代表者として韓国皇帝陛下の下に統監(レジデントジェネラル)を置く。統監は、外交に関する事項を管理するため京城に駐在し親しく韓国皇帝陛下に内謁する権利を有する」とある。初代統監は伊藤博文が1906年3月から1909年6月まで務めた。
日本と韓国との領土問題になっている竹島
日本と韓国との領土問題になっている竹島
 竹島領有権論争が進行中の現在、韓国側の学者・研究者からは、この第二次日韓協約を理由として「韓国は日本による独島侵奪に抗議したくても、外交権を日本に押さえられていたから抗議ができなかった」という主張がしばしば言われ、日本の竹島編入を非難する一つの材料となっている。二、三の例を挙げよう。

 1905年の島根県編入措置は、日露戦争中、韓半島侵略過程で行われたものであり、すでに確立した大韓民国の独島領有権に対して行われた不法かつ無効の措置である。韓国は日本の措置について気付いて、即時「独島が韓国の領土である」ことを再確認したものの(1906年)、乙巳勒約(1905年11月)によって外交権が奪われた状態だったため、外交的抗議の提起ができなかったのである。(東北アジア歴史財団「日本外務省の独島領有権主張に対する反駁文」2008年)

 韓国政府が日本政府の独島侵奪決定の事実を知ったのは、1906年3月28日でした。鬱島郡守の沈興澤はこれを知るや「本郡所属独島が日本の領土になったと日本人たちが主張している」と江原道観擦使に報告し、江原道観擦使は中央政府に報告しました。これに対して、韓国政府内務大臣は直ちに独島領土侵奪を断固として否定し、「独島を日本領土とする主張は全然理がない主張で、甚だしく驚愕するところだ」と抗議しました。

 議政府の参政大臣(総理大臣署理)は、「独島の日本の領地云々は全く根拠のない主張」と強力に抗議し、日本人の動きをさらに報告するように訓令しました。しかし、韓国中央政府のこのような抗議は、日本政府に外交文書として発送することができず、書類としてだけ奎章閣に保管されることになりました。何故ならば、日本が1905年11月18日に乙巳条約を強制して韓国政府の外交権を奪ってしまい、1906年1月からは日帝統監府が韓国政府の外交権を行使したからです。しかし、韓国政府がこの時強力に抗議したことは証拠が残っている事実でした(シン・ヨンハ(独島学会会長 ソウル大名誉教授)『世界人が独島問題を理解するための16のポイント』)。