小林信也(作家・スポーツライター)

 大迫傑(すぐる)が4月17日のボストンマラソンで3位入賞。日本選手がボストンで表彰台に立つのは、瀬古利彦選手が優勝して以来30年ぶりと話題になった。大迫は早稲田大学時代、箱根駅伝1区で2年連続区間賞を取るなど活躍。早くから「将来はマラソンで世界と戦ってほしい」という期待を担っていた。

 日本の男子マラソン選手が世界の一線から大きく離され、かつてのように優勝を争う機会が少なくなって久しい。それだけに、今回の大迫のニュースはファンの胸を躍らせた。

 折しも、ほぼ同じ時期に、2020東京五輪マラソン代表選手選考に関する新たな方法が発表された。発表したのは、日本陸連のマラソン強化プロジェクトリーダーを務める瀬古利彦氏。もめることの多かった選考基準を見直し、選考レースで上位ふたりを決め、残りひとりを追加のレースで選考する方式。以前より明快になったが、残りひとりはやはり曖昧さが不安視されている。

 古くからのマラソンファンには、思い浮かぶことがあっただろう。瀬古は現役時代、ボストンで優勝したほか、数々の快走と優勝を重ね、福岡国際マラソンでは3連覇を記録するなど「世界最強」と信じられていた。ところが、最高の晴れ舞台になるはずのロサンゼルス五輪で14位に終わった。次のソウル五輪では、五輪代表選考レースと指定された福岡国際マラソンにケガで出場できず、物議をかもした。当時ライバルだった中山竹通選手が「這ってでも出てこい」と言った逸話が広く知られている。期待の高かった瀬古は結局3月のびわ湖毎日マラソンで優勝しソウル五輪代表に選ばれたが、五輪の舞台では奮わず、9位に終わった。それは瀬古自身にとっても、苦い経験だろう。だからこそ、強化プロジェクトリーダーの役割を与えられた東京五輪で成果を上げることを大きな使命と感じているだろう。

初マラソンとなるボストン・マラソン男子で、3位に入った
大迫傑=4月17日、米マサチューセッツ州ボストン(共同)
ボストン・マラソン男子で、3位に入った大迫傑
=4月17日、米マサチューセッツ州ボストン(共同)
 一連のニュースや動きを見ていて、さまざまな因縁を感じる。大迫は同じ早稲田大学の後輩。その大迫が日清食品を一年で退社し、選んだ先は、ナイキオレゴンプロジェクト。そのチームのコーチは、アルベルト・サラザール(アメリカ)なのだ。

 サラザールと聞けば、瀬古の活躍を知るオールドファンなら、懐かしく思い出すだろう。まさに、瀬古利彦のライバルだった人物だ。

 瀬古が福岡国際で3連覇を果たした翌年1981年10月のニューヨークシティーマラソンで、2時間8分13秒、当時としては驚異的な世界記録で優勝した。デレク・クレイトン(オーストラリア)の記録を12年ぶりに約20秒上回る快記録。サラザールの名は一躍、「瀬古利彦の最大のライバル」として日本のマラソンファンに刻まれた。サラザールの記録は84年12月になって「距離が150メートル短かった」と判明し取り消されるが、1984ロス五輪に臨むまでの間はサラザールが世界記録保持者であり、ファンにとっても脅威の存在であるのは間違いなかった。ただ、サラザールもケガに苦しみ、ロス五輪での快走は幻に終わった。