10年ほど前、ある有名な脚本家が手がけたドラマで二枚目俳優が演じる少年鑑別所職員が、自分の娘を虐待した彼氏を庇う母親に「子供を産んだら女捨てろよ!」と一喝するシーンがありました。多くの視聴者はこのセリフにうなづいたのかもしれません。すくなくとも脚本家はそれを意図したのだろうと思います。

 唐突にテレビドラマの話をしましたが、今回は赤ちゃんをめぐるトラブルの話です。といっても、親権やDNA鑑定ではなく、「泣き声がうるさい」とか「ベビーカーが邪魔だ」等よくある日常のお話です。そして冒頭のように「自我を捨てることが親になることなのか?」ということを、出産も子育てもしていない私が自分のモノサシで語ります。

 私自身、正直に言えば飛行機や特急電車の中で延々と赤ちゃんに泣かれるのは生理的には不快です。電車の扉が開いて入り口にベビーカーが見えると、瞬間的には「面倒くさいなー」と感じます。しかしそれが果たして迷惑なのかというと即座にイエスではないのです。

 そもそも迷惑というのは社会的な話です。ここでつまづいてる人が結構多いと思うのですが、生理的に自分が不快なだけで即座に迷惑だとは言えないのです。迷惑とは基本的にやらなくていいことをあえてやることで、他人に不快感や不利益を与えることです。赤ちゃんが泣くのは一般的に周囲にとって快感ではないですが、泣かない赤ちゃんが模範的な赤ちゃんとは限りません。
 そこで結局問題になるのはその親のほうです。「親が子供を連れて外出しなければいい。結局は親のエゴだ」という意見もよく聞きます。ベビーカーも往来の邪魔だから抱っこして歩けばいい。むしろ子育てだから家から出なくていいだろう。親たる者は子供と社会のために身を捧げて生きよ。と。特に母親は「献身と自己犠牲の多さでその愛情を試されるもの」だと暗黙のうちに了解されている気がするのです。自分の楽しみや快適さをどこまで我が子のために捨てられるか、そういった態度で社会をどれだけ安心させられるか。他人は減点法でクールかつ無責任に採点しています。

 そして冒頭のドラマのように、肥大した社会正義は「母親は女(自分)を捨てろ!」と大声で主張します。言ったほうは気持ちいいでしょうが、これでは子育てなんて苦痛でしかないと思われても仕方ないし、少子化対策に税金投入したところで意味はないでしょう。だいたい、親が自我や性を捨てたところでその子供にとってよい親になるのかどうか、それは社会が一元的に決めることではないと思うのです。献身的な親の姿を見て満足し、さもなければ一方的に罰を与える側に立って安心するのは誰なのかといえば、とっくに大人になった人達です。

 私は公共の場で赤ちゃんに泣かれるのは好きではありません。ベビーカーも混雑状況によっては「邪魔だなー」と心の中では思ったりします。しかし、自分が生理的に不快なことと社会的に迷惑であることをイコールとは考えません。「子供を泣きやますことができない親は、もっと申し訳なさそうに生きるべきだ。」とは思いません。ではこの不快感をどう処理するのかといえば、今回はお互いにタイミングが悪かったのだと思うことにしています。根本的な解決にはなりませんが、そもそも最初からここには明白な悪者などいないのです。