「近いうち解散」(野田首相、平成24年11月)


 民主党が下野することになった平成24年11月の解散。野田佳彦首相は同月14日の党首討論で、野党自民党の安倍晋三総裁から「近いうち」と言ってきた衆院解散はいつなのかと追及された。

党首討論に臨んだ自民党の安倍晋三総裁(左)と野田佳彦首相。首相は「16日衆院解散」を宣言した=2012年11月14日午後、国会・衆院第1委員室(酒巻俊介撮影)
 野田氏は議員定数削減に関し「通常国会で必ずやると決断してもらえるなら16日に解散してもいい」と言い放った。突然の解散宣言に与野党は色めき立った。

 一瞬戸惑いながらも、すぐに「待ってました」とばかりに興奮気味の表情になった安倍氏と悲壮感すら漂わす野田氏。その光景はあまりにも対照的だった。

「郵政解散」(小泉首相、平成17年8月)


 17年の小泉純一郎首相による解散も、ほとんどの国会議員の度肝を抜いた。

 8月8日の解散後の記者会見で小泉氏はこう声を張り上げた。

 「それでもガリレオは『地球は動く』と言った。国会は郵政民営化は必要ないと結論を出したが、国民に聞いてみたい」

20050808
会見する小泉純一郎首相=2005年08月08日、東京・首相官邸
 参院で否決された郵政民営化法案について衆院選で国民の信を問うという手法に、身内の自民党からも「筋が通らない」などの批判が出た。

 この解散に、党内からは「干からびたチーズ解散」との命名まで飛び出した。

 小泉氏は出身派閥、森派の領袖の森喜朗元首相と解散2日前に首相公邸で会談。公邸を出てきた森氏は記者団に、握りつぶしたビールの空き缶と干からびたチーズを見せ、小泉氏が「殺されてもいい。郵政民営化はおれの信念だ」と語ったことを明かした。


「死んだふり解散」(中曽根首相、昭和61年6月)


 昭和61年6月の「死んだふり解散」もその名の通り突然の出来事だった。

 中曽根康弘首相は解散を断念したとみられていたが、通常国会を閉幕した直後に臨時国会を召集して解散した。翌7月、戦後2度目となる衆参同日選で自民党を圧勝に導いた。

自民党圧勝でバラをつける中曽根首相(右)=1986年07月07日
 中曽根氏は後に「(同日選は)正月からやろうと考えていた。死んだふりをした」と振り返っている。

「黒い霧解散」(佐藤首相、昭和41年12月)


 昭和41年、政界では自民党を巻き込んだ一連の疑獄事件(黒い霧事件)が摘発され、佐藤栄作首相は苦境に立たされていた。

世田谷の私邸をでる佐藤栄作首相(左は寛子夫人)=1966年12月
 こうした中、同年11月30日に召集された第53回臨時国会冒頭で、当時の野党、社会党、民社党、公明党、共産党が早期解散を目指すことで共闘体制を組んだ。その直後に共和製糖事件の強制捜査が始まったこともあって、4党は佐藤首相の施政方針演説をボイコットするなど、すべての審議拒否に出た。

 その後、与野党の間で国会正常化協議が行われたが難航、27日に召集された第54通常国会冒頭に衆院が解散(黒い霧解散)された。翌年1月の総選挙では自民党は改選議席を確保、佐藤首相は危機を乗りきった。

解散できず退陣も


 解散したくてもできず、退陣に追い込まれたケースもある。

 平成3年9月、政治改革関連法案の廃案が決まったことを受け、海部俊樹首相は自民党の小渕恵三幹事長らに「重大な決意」で臨む考えを表明、解散をちらつかせた。しかし、当時の最大派閥・竹下派の反対で解散に踏み切れず、退陣に追い込まれた。

 安倍首相の祖父・岸信介元首相もそうだ。岸首相は昭和35年1月に新日米安全保障条約に調印。その直後に解散し、新条約の信を問うことを考えた。だが、川島正次郎幹事長は「解散」で党内をまとめることはできないとして反対。新条約は批准されたが、安保反対闘争による混乱の責任をとって岸内閣は総辞職した。

(肩書はいずれも当時)