本郷和人(東大史料編纂所教授)

 若いときに苦労した人が、大きな仕事を成し遂げる。なにを当たり前な、と思われるかもしれませんが、日本史を勉強していると、つくづくとそれが実感できます。

 あまり有名ではないのだけれど、鎌倉時代の中ごろに、後嵯峨上皇(1220~1272年)という方がいました。それまでの天皇家は「君臨する存在」でしたが、統治者ではなかった。上皇はそれを変革したのです。有能な貴族たちを登用し、統治のシステムを創出した。システムの働きを通じて世の乱れに能動的に対応する。鎌倉時代末まで、歴代の天皇(上皇)はそうした「すぐれた統治者」として機能することになります。

 この後嵯峨上皇は、本来は皇位に就くチャンスのない方だった。親王宣下を受けることもなく、貴族たちからも半ば忘れられ、ずっとつつましい生活を送っておられた。ところがいくつかの偶然が重なり、鎌倉幕府の後押しを受けて、皇位に上った。苦労してきたからこそ、政治の欠点がよく見えたのでしょう。天皇は東の幕府と連携し、朝廷の刷新に乗り出すのです。

 もちろん、変わればよい、というものではありません。変革への強烈な意志が大失敗をもたらすときもある。日本は世襲の原理が強く働く国柄で、歴史の推移がおとなしいというか、おだやかです。そのために血で血を洗う凄惨(せいさん)な抗争劇や、町がまるごと地上から消えてしまうような大虐殺は起きていない。でもやはり過度な世襲は、全て「前例の通り」に、という事なかれ主義につながりやすい。若いときに辛酸をなめた人物の方が、社会の不備や欠陥を端的に見抜くことができるのかもしれない。

群馬県館林市の善導寺に伝わる徳川家康の肖像(模本、東大史料編纂所蔵)
群馬県館林市の善導寺に伝わる徳川家康の肖像
(模本、東大史料編纂所蔵)
 ぼくは徳川家康という人こそ、苦労が人間を大きくした典型ではないか、と思っています。信長のようなある種の天才ではない。秀吉のようなカンの冴(さ)えもない。だが地道に努力し、倦(う)まずに勉強する。子供の頃に生母と引き離されて人質生活を余儀なくされ、父も暗殺された。今川義元が桶狭間で倒れた後にやっと独立したけれど、周囲はよく知らぬ家臣が固めていて、自分の思いは通らない。

 後世では忠節無比の三河武士、なんて言われていますが、あれは物語にすぎないんじゃないかな。地元第一で凝り固まった家臣の統制に、駿府という都会育ちの青年・家康は困り果てたんだろうと想像します。だってその証拠に、初代将軍の座を退いてから、家康は岡崎に帰っていませんもの。故郷というのは、「志を果たしていつの日にか帰る」憧憬(しょうけい)の地。でも家康にとって、それは駿府であって、岡崎ではなかった。

 ともかく耐える。耐え忍ぶ。信長と攻守同盟を結んだら、それを絶対に破らない。武田信玄が攻めてきても、信長はまともに援軍なんか送ってきません。おかげで三方ケ原の戦い(1573年)ではあわや戦死しそうになって、怖くて大便を漏らして逃げた。愛する妻の築山殿と跡取り息子の信康も、信長の命で殺害した。それでも決して背かない。律義者の仮面をかぶり通したわけです。

 徳川家は清和源氏の名門、新田家の子孫を称しています。ところが若き日の家康は「藤原家康」なんて堂々と署名している。おそらく「源平藤橘」の姓と、「新田・織田・徳川」などの家名との関係がよく分かっていなかったのでしょう。でも、そこから彼は歴史を学んで、わが家は源氏であって、だから征夷大将軍になるんだ、という論理を展開するまでになる。彼の好学の気風は九男の義直(尾張藩の始祖)、さらに水戸の光圀に受け継がれていきます。

 さて、ここで問題です。家康の学問への真摯(しんし)な姿勢は、私たち中世史研究者(とくに政治史)に具体的な恩恵を与えてくれています。それはいったいどういうことでしょう? ヒントは、彼の本拠地選び、つまり江戸の開発です。