では、家康はどのような手を打っていたのか。家康は長年苦労に苦労を重ね、60歳を過ぎてようやく天下統一を果たしたことから、徳川政権が未来永劫に続くことを願い、徳川政権を脅かす芽を徹底的に摘み取った。

 大名の容赦ない取り潰しをはじめ、大名の妻子を人質として江戸に住まわせる、参勤交代や普請(現在の公共事業)などで経済力を弱める、外様大名を遠隔地に移封して幕政に参加させない代わりに石高は多くするなど、謀反を起こさせないように何重にも対策を張り巡らせた。

 しかし、肝心の徳川家の血筋が絶えてしまっては元も子もない。そこで家康と、その遺志を受け継いだ秀忠が作ったのが御三家の体制だった。家康の11人の息子のうち、九男を尾張、十男を紀伊、十一男を水戸の藩主とした。もし将来、秀忠の子孫の血筋が絶えた場合に備えて、この御三家の中から誰かが将軍を継ぐことができるようにしたのだ。究極の危機管理策である。
静岡市にある徳川家康公之像
静岡市にある徳川家康公之像
 吉宗の8代将軍就任は、その危機管理策が約100年後に効力を発揮したことを示している。吉宗が将軍になるにあたっては、次期将軍の座をめぐって尾張藩との争いがあったと言われているが、それも幕府存続を大前提とした中でのことであり、それほど御三家という危機管理策が浸透していたことがうかがえる。

 吉宗が享保の改革などで幕府を立て直したことは良く知られるとおりで、それが徳川政権のさらなる長期化につながったことは明らかである。血筋の面でも14代将軍まで代々、吉宗の子孫が将軍となっている。もし御三家という危機管理策がなかったなら、名君・吉宗の登場と徳川の長期政権はなかったかもしれない。

 第3は、成長戦略である。江戸時代の経済は成長と低迷を繰り返してきたが、大きな経済成長の波は3度あった。最初の経済成長は元禄時代(1688~1704年)、5代将軍・綱吉の時代である。

 これは前述の武断政治から文治政治への路線転換がきっかけとなっている。世の中が安定して各藩主は領国経営に力を注げるようになり、農業生産が上昇した。人々の生活が向上すると余裕が生まれ、その中から文化や学問も発展した。いわゆる元禄文化である。今日で言えば高度経済成長、あるいはバブル経済といったところだろうか。

 実は、元禄時代より少し前の時代、江戸は未曽有の大災害に見舞われた。1657年の明暦の大火(振袖火事)で、江戸の大半が焼け野原となり江戸城内にも燃え移り天守閣が焼失した。死者は10万人に及ぶと言われる。

 幕府は前述の保科正之を中心に、江戸の復興に取り組んだ。延焼を食い止めるため各地の道路を拡幅し広小路を作った。現在も地名を残す上野広小路はこの時に作られたものだ。また、それまで幕府は江戸防衛の観点から隅田川にはほとんど橋を架けていなかったが、そのために大火の際に多くの人が川を渡って逃げることができず焼死したことから、現在のように川に多くの橋を架けた。

 江戸はこうしてインフラ再整備と再開発が進み、復興を成し遂げることができた。これが元禄時代の江戸の繁栄につながったのである。しかし、元禄以後、経済は下降し始める。現代風に言えばバブル崩壊だ。

 これには、綱吉の後を継いだ6代将軍の家宣と7代の家継時代の政策も影響している。家宣は生類憐みの令を廃止するなど、綱吉政治を否定する政策をとったが、その一環として貨幣の改鋳を行った。元禄時代に発行された貨幣は金銀の含有率を低下させていたため、将軍のブレーンだった朱子学者の新井白石は「公儀(幕府)の威厳を低下させるもの」と非難し、金銀の含有率を幕府開びゃく当初の慶長金貨並みに引き上げることを提言し実行した。