しかし、それは時代に逆行するものだった。金銀の含有率を引き上げ、新貨幣の価値を保つため貨幣発行量を減少させた。いわばデフレ政策で、景気を冷え込ませる結果となった。

 そうした中で登場したのが8代将軍・吉宗だ。吉宗の享保の改革は当初は、質素倹約、年貢の強化などで幕府財政の立て直しを図ろうとしており、いわばデフレ政策の継続が中心だった。

 しかし、注目すべきなのは、途中から貨幣の金含有率を再び引き下げて貨幣の発行量を増やすインフレ政策に転換したことだ。デフレから脱却して緩やかなインフレをめざす――今日のリフレ政策、アベノミクスの“原点”とも言えるものだ。

 吉宗はまた新田開墾、産業振興を奨励した。成長戦略の導入である。その結果、経済は再び上向き幕府財政も好転する。弱っていた幕府の政治的経済的基盤は強化された。これが江戸時代の経済成長第2の波だ。

 吉宗の政策は、次の9代・家重と10代・家治にも引き継がれたが、その時代に実権を握ったのが田沼意次だ。田沼は印旛沼開拓や鉱山開発、蝦夷地開発などを進めるとともに、商業の振興や貨幣経済の発展を図った。長崎貿易を奨励して貿易による収入を増やす方針も打ち出した。田沼の政策は当時としてはかなり先進的で、成長戦略のメニューがそろっていたと言える。その結果、幕府の備蓄金は元禄時代並みの水準まで回復する成果をあげた。

 田沼意次は「賄賂政治家」と言われるが、それは当時の反田沼派の批判キャンペーンによって過大に作り上げられたイメージだとの指摘が少なくない。結局、将軍・家治の死去とともに田沼は失脚し、成長戦略は頓挫する。

 その後を継いだ11代将軍・家斉の下で老中に就任した松平定信は、田沼政治をことごとく否定し、経済政策においてもデフレ政策に逆戻りさせた。松平定信が行った寛政の改革は、3大改革の一つとして必ず教科書に出てくるが、実際には経済を停滞させる結果となったのである。

 その松平定信もまた厳しすぎた政策が原因で失脚し、そのあとに3度目の経済成長の時代を迎えることになる。文化・文政年間(1804~30年)のことだ。元禄、吉宗・田沼時代、そして文化・文政の3度の経済成長期を経て、全国の農業生産は着実に増加していた。

 ある推計によれば、全国のコメの生産量は元禄時代の2900万石から、1840年ごろには3400万石へと増加している。年率わずか0.1%余りの低成長だが、技術革新などがほとんどなかったこの時代に生産力向上が持続していたことは特筆に値する。このことが徳川長期政権を支える役割を果たしたことは間違いない。

 江戸時代の経済繁栄は文化・文政時代が最後となった。文政の次の天保年間に幕府は老中・水野忠邦の下で天保の改革を行うが失敗に終わり、その後は幕末に向かって崩壊の道を歩むこととなる。幕府とは対照的に、同じ天保年間以後に薩摩や長州などの雄藩は藩政改革に取り組んで自力で経済力を向上させることに成功した。それがやがて明治維新につながったのだ。

 「江戸時代版・3本の矢」によって長期政権を築いた徳川幕府だったが、最後の最後で、ペリー来航など時代の変化に合わせて戦略を転換することに失敗し、危機管理の効果も発揮できず、成長戦略も挫折してしまったのだった。逆に言えば、その「3本の矢」がいかに重要な役割を果たしていたかを物語っている。