さらに外政では、朝鮮への再出兵も行わず、外国からの侵略に備えることもせず、琉球を薩摩藩の支配下に置いた。内政ではキリシタンを弾圧し、檀家(だんか)制度で仏教を骨抜きする宗教政策を進め、大名の領地を取り上げて将来の不安を解消することもしなかったので、軍事費が減り、築城や大砲の進歩に対応した城の増強もしなかった。だから、鎖国して貿易利益が縮小しても、当面は大丈夫だったのだ。

 ところが、この米中心の財政構造は無理があった。今でいう国内総生産(GDP)に対する租税負担率が徐々に下がることが避けられなかったからである。

 まず、米の需要には限りがある。ところが、米以外からでは年貢が取れないので、各藩は米を増産する。そうすると当然過剰生産になり米価が下がってしまった。なにしろ、江戸時代後期には全国の人口が3千万人に対し、米の生産量を示す石高は3千万石だった。

 つまり1人あたり1石の消費だが、これは1日換算では5合にもなる。つまり、江戸時代の日本人は無理な税収構造の果てに、過剰生産により安かった米のご飯を、みそだ、漬物だ、小魚だといった貧弱なおかずでひたすらかき込んでいたのである。

 また、天変地異に弱い米に偏った作付けは、冷害や干魃(かんばつ)による飢饉(ききん)を何度も引き起こし、そのたびに現代の北朝鮮のように膨大な餓死者を出した。しかも、貿易をしないから輸入ができない上、民政を各藩に任せたために、気の利いた「名君」だけがあらかじめ米を買い占めて自藩の領民を救ったので、特定の藩では生き地獄の事態を招いたのである。
 飢饉のときには、餓死までいかなくとも栄養不足により人口減が見られた。現代の北朝鮮でも文字通りの餓死以外に同様の事態がしばしば起こっているのである。

 また、年貢の取り方としては、当初は検見(けみ)法といって作柄を役人が調査して税額を決めていた。しかし、これでは収入が不安定だし、検査に経費がかかるし、不正の温床となった。

 そこで定免(じょうめん)法という定額制に移行していった。これは、導入当初は税収の安定をもたらし、行政経費の削減にもなって領主にとっては有利だった。しかし、時間がたつと、農民は工夫して増産をしても年貢は変わらなかったので、実質的に税率の低下をもたらした。

 さらに、鎖国といえども新しい技術や作物がわずかながら導入され、独自の技術発展もあったので、さまざまな商品作物が栽培され、工業製品も考案されたので、米の年貢から上がる税収の対GDP比率はますます下がった。そこで、西日本の雄藩などは商品作物の作付け奨励や、専売制の実施といった政策で、新しい税収の確保に努めたのだが、幕府や東日本の藩は全般的に、税収確保の流れを「体制の危機」ととらえて抑制した。

 その結果、幕府は松平定信の寛政の改革(1790年前後)に代表される贅沢禁止などにより、税収が増えないならGDPを減らせば租税負担率は低下しないというとんでもない政策に走った。また、貨幣改鋳は幕府にとって最大の収入増になるはずだったが、道義的に好ましくないと考えられ、実施されるのはいつも時期外れで、しかも稚拙だった。