貿易も、鎖国当初は長崎を通じてかなりの規模で行われていた。そのころは金銀の生産が多かったので輸入が容易だったのである。しかし、鉱山開発の最新技術導入ができないまま、生産はどんどん低下し競争力も失われた。主力品だった陶磁器も明の滅亡前後の混乱による景徳鎮の衰退に乗じて、一時的に市場が拡大したが、中国王朝の復活とヨーロッパでのマイセン焼の発展で全盛期は長く続かなかった。
19世紀の長崎
19世紀の長崎
 そこで、本来であれば幕府が率先して大々的に輸出産業の振興を図らねばならない。実際、江戸中期に田沼意次が「乾隆帝バブル」の清王朝にナマコやアワビ、フカヒレなどを俵に詰めた俵物(たわらもの)を積極的に輸出して莫大な利益を得た。ところが、田沼失脚後の松平定信は、できればオランダとの貿易もやめたいくらいという貿易に後ろ向きの態度に終始して事態を悪化させた。

 当たり前のことだが、鎖国して技術交流もせず、まったく代わり映えのしない製品を国内でつくり、変わらぬ生活をしていれば、産業の国際競争力が落ちる。そうすれば、細々と行っていた貿易でも輸入品に対する国産品の格差が大きくなるのは当然だ。

 そのツケは、鎖国期も払っていたが、開国したら、長く職場を離れていた病み上がりの人が新しい仕事に適応できないのと同じことになったのである。そして、特に武器の分野では、火縄銃で最新のライフル銃と対峙(たいじ)する羽目になるほど、ひどい目にあったのである。

 先に書いたように、江戸幕府や多くの藩は、生活や経済構造をなんとか変えないようにした。しかし、新しい商品が生産されるのを完全に封じるわけにはいかないので、租税負担率が低下し、その結果、武士の生活は惨めになった。

 農民は、商品作物のおかげで豊かになることもあったが、主力作物の米に重税を課された上に米価も低迷したので苦しい生活が続いた。それに対して、町民は税金もあまり取られないため豊かになった。だから農民は逃散して都市に出たがる。実際、飢饉などによる人口低迷もあって、耕作する農民がいない田地が続出したのである。そこで、農民の移住はもちろん、旅行すら原則禁止する藩も多かった。

 こういう状態を「農奴に近い」と表現しても何もおかしくあるまい。

 一方、町民は自由だったし、武士や農民より良い生活ができた。とくに江戸はインフラもしっかりしているのでなおさらだった。時代劇に出てくる江戸の町民が幸せそうなのは、実際に豊かなわけではないが、地方の農民に比べて格段に恵まれていたのだから当たり前で、それは平壌の市民が体制を熱烈に支持しているのと同じような状態だったのである。

 また、藩が農民の逃亡を恐れて縛り付けても、江戸や大坂の周辺には、小領地が錯綜(さくそう)していたので統制のしようがなかったし、都市でアルバイトをするチャンスもあったのは事実だ。

 いずれにしても、このように、幕府や東国の各藩が財政破綻、農民の不足、武士の窮乏化に悩んでいるときに、西南雄藩では税収も人口も増え、農民も相対的に豊かになっていった。