天皇と為政者のすれ違いは、時に激しい衝突に発展することもあった。歴代天皇と時の権力者の対立の歴史から、正親町天皇と織田信長が、蘭奢待(らんじゃたい)切り取りで対立した事件について、歴史家の八柏龍紀氏が解説する。

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 戦国時代、彗星の如く台頭した織田信長は、天皇の権威を利用して勢力拡大を図ろうとしていた。

 一方、応仁の乱以降、長びく朝廷財政の悪化のなか即位した正親町天皇は、信長の台頭に「ご褒美」の綸旨(りんじ、天皇の意を伝える奉書)や官職を与えて、引き換えに様々な財政援助を引き出そうとした。

 その意味で両者は一見、“持ちつ持たれつ”の関係であったが、信長は正親町天皇からの度重なる無心に業を煮やし、東宮である誠仁親王の元服費用を求められた際は、質の悪い悪銭を進上し抗議の意を示したというエピソードもある。

 そんな両者の争いが鮮明になったのが、天正2年(1574年)に起きた「蘭奢待切り取り事件」だ。蘭奢待は聖武天皇の遺宝とされる香木で、東大寺正倉院に収蔵される。「天下第一の名香」と謳われ権力者に重宝された。信長は、自身の権力を誇示すべく、この蘭奢待を切り取る勅許を正親町天皇に求めたのである。
2016年10月4日、奈良の正倉院で行われた、年に1度、宝物の点検などのため宝庫の扉を開ける「開封の儀」
2016年10月4日、奈良の正倉院で行われた、年に1度、宝物の点検などのため宝庫の扉を開ける「開封の儀」
 正親町天皇は、「そんなことをすれば聖武天皇の怒りが天道にまで響く」と怒りを顕わにしたが、最終的には許さざるをえなかった。

 大名間の抗争が激化する戦国時代にあって、朝廷の役割には、それらの抗争を鎮め「和睦」を促す、いまで言う「バチカン」的な役割があった。正親町天皇もまた、時の権力者である有力武将や寺社と円満な関係を築くため、全方位に配慮せざるを得なかったのだ。

■取材・構成/池田道大

●やがしわ・たつのり/秋田県生まれ。慶應義塾大学法学部・文学部卒業。高校教師、大手予備校講師などを経て、現在、淑徳大学エクステンションセンター講師、京都商工会議所主催「京都検定講座」講師。日本近現代史、日本文化精神史、社会哲学など幅広いテーマで執筆、論評、講演を行う。『戦後史を歩く』(情況出版刊)、『日本の歴史ニュースが面白いほどわかる本』(中経出版刊)など著書多数。近著に『日本人が知らない「天皇と生前退位」』(双葉社刊)がある。

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