渡邊大門(歴史学者)

 平清盛(1118-1181)といえば、武家政権を自らの手で樹立し、栄耀(えいよう)栄華を極めた人物として知られる。清盛が強い存在感を示したのは、保元元(1156)年に勃発した保元の乱のときである。清盛は後白河天皇の勝利に貢献し、その軍事力を大いに誇示した。

 平治元(1159)年の平治の乱では、ライバルの源義朝を討ち破り、武家政権樹立の布石を築いた。その後の清盛の昇進は目覚ましく、永暦元(1160)年に参議正三位に叙され、武士として初めて公卿(くぎょう)となった。その7年後には、従一位太政大臣にまで上り詰める。その理由はどこにあったのか。


 清盛が台頭した背景には、摂関家や天皇家と積極的に婚姻関係を結んだことにあった。関白・藤原(近衛)基実には、娘の盛子を嫁がせた。基実が亡くなると、その遺領は盛子が引き継いだ。基実の子息・基通には、娘の寛子を嫁がせている。こうして清盛は、全国で500余の荘園を手にすることに成功したという。

戦前、いかつく狡猾なイメージで描かれた平清盛。『国史画帖大和桜』(昭和10年刊)
戦前、いかつく狡猾なイメージで描かれた平清盛。『国史画帖大和桜』(昭和10年刊)
 また、後白河上皇には、妻・時子の妹・滋子を入れ、上皇の皇子の高倉天皇には娘の徳子を入内(じゅだい)させた。治承4(1180)年には、高倉天皇と徳子の間に安徳天皇が誕生する。こうして清盛は外祖父の地位を獲得し、政治権力を掌中に収めた。天皇すらコントロール下に置いたのである。

 平氏一門は隆盛を極めた理由として、日宋貿易で巨万の富を築いたことも挙げられる。また、平氏一門は高い官職を得て、「平氏政権」と称される権力体になった。時子の弟、平時忠が「平氏にあらずんば人にあらず」と豪語したのは、その自信の裏付けであろう。

 この段階で、清盛は天皇に近づいたと言っても過言ではないであろう。

 このようにわが世の春を謳歌(おうか)した清盛であったが、その異常なまでのスピード出世には秘密があるとされてきた。それは、清盛の出生にまつわる理由にあった。

 清盛が異例の出世を遂げたのには、その出自にあったという説がある。元永元(1118)年、清盛は平忠盛の長男として誕生した。このことは系譜上明らかなことなのであるが、清盛の出生にはいくつもの謎がある。その一つが白河法皇の御落胤(らくいん)であったという説である。

 今の教科書には取り上げられていないが、明治時代の小学校の教科書には、清盛の後白河法皇の御落胤説が堂々と記されていた。これは江戸時代に伝わった説を引き継ぐもので、世の人々に広く伝播(でんぱ)するきっかけにもなった。

 実際、忠盛には何人もの妻がいた。その事実は、系図集の『尊卑分脈』で確認することができる。妻の名を列挙すると、藤原宗兼の娘(池禅尼)、源信雅の娘、藤原家隆の娘、藤原為忠の娘であり、彼女たちは子に恵まれた。側室が多数いること自体は、特に珍しいことではない。