岩田慎平(立命館大学文学部非常勤講師)


 桓武天皇の子孫である平将門は、いくつもの戦いを経て関東を支配下に治めた。独自に「新皇」を称したとされる将門のもとへは天慶三(940)年に朝廷から追討使が派遣され、それに呼応した藤原秀郷や平貞盛らの攻撃を受けて討たれた。将門の乱は中世に活躍した武士が登場する画期ともいえるという点でも注目される事件である。中世における武士の特徴とあわせて考えながら、事件の概要を追うことにする。

築土神社所蔵の平将門像
築土神社所蔵の平将門像
 天皇の子孫であった将門が坂東で活躍することになったのはなぜか。まずはそこからたどり直してみよう。

 平安京への遷都で有名な桓武天皇。その曾孫である高望王は、平姓を賜って臣籍に下った。新たに「平高望」を称することになって与えられた任務は、坂東へ下向することであった。この当時、地位が低下した郡司や、任期切れの後も任地に留まり続けた前任国司、あるいは中央貴族の家人たちが地方での有力者(「富豪層」)として活動し、ときには国司の命令にも従わず、さらには武力蜂起に至るような事件が発生していた。平高望が派遣された坂東は、そうした富豪層による事件がとくに多発していたのである。治安の紊乱(びんらん)が著しい坂東に下向し、地域の安定化という実績を上げることで、藤原氏の優位が確立しつつあった京都の貴族社会での失地回復を図ったのだともいわれる。地方に蟠踞(ばんきょ)する富豪層の反受領武装闘争を鎮圧するために、彼らの武力が期待されたというのである。

 しかしこのような見方には問題が残る。

 まず、朝廷内において勢力を維持するためには、京都に留まって国政の枢要に関わり続けることが最低条件である。地方に下向すると決めたことは、平高望が朝廷内における主要な地位の維持を半ば放棄したものと見てよい。

 また、新たに地方へ下ってゆく彼らにどれほどの武力が期待できたであろう。この時代には、有事において国司が動員・指揮する諸国の兵士も維持されていたとされる。その上で坂東に派遣される平氏に期待されたのは、反受領武装闘争を繰り返す地方の富豪層を、中央との政治的提携を活かして現地の国司らと協力し合いながら支配下に取り込みつつ(「家人化」)、それに従わない者は鎮圧すること(「治安維持」)であった。

 平高望は上総介(上総国の国司)であったことに加えて、前常陸大掾(常陸国の前任国司)源護の一族と姻戚関係にあるなど、国家権力の一端を担いつつ、現地の諸勢力とも協調関係を維持しながら活動していた(将門と争うことになる叔父の平国香や平良兼らも源護の一族と姻戚関係を維持していた)。

 高望の子・平良将(良持とも)は下総国佐倉に所領を持ち、その子にあたる将門は朝廷に中級官人として出仕する旁ら、太政大臣藤原忠平の家人でもあった。つまり将門は、地方で所領を経営する父親と分担し合うかたちで、在京活動を行っていたのである。

 所領を維持するためには、その地方での活動はもちろんのこと、在京活動による政治的地位の保全も欠かせなかった。地方での活動を円滑に行うためには、近隣の国司との関係を良好なものにしておくことが欠かせず、そのために国司との姻戚関係を築いたり、国司の動向を左右しうる有力な中央貴族との提携が必須であった。

 つまり関東に下向した平氏は、その当初から朝廷の権威・権力に依存する存在であったのだが、このことはまた、古代~中世にかけての武士の特徴の一つでもある。

 ところが、良将が没したため将門は在京活動を休止し、地方の所領を維持するため現地での活動を優先せざるを得なくなる。そして、将門が所領に下向したときには、父の所領の多くは伯父の平国香や良兼、叔父の良正らに横領されてしまっていたとされる。それが将門と一族との間の長い抗争のはじまりとなるのだが、このように一族内部で所領をめぐる争いを繰り返すこともまた、古代~中世にかけての武士の特徴の一つである。