今谷明(帝京大特任教授)

 天皇にならんとした人物に、奈良時代称徳朝に弓削道鏡がいる。これに対し、義満は厳密には自ら天皇たらんとしたのではなく、次男義嗣を天皇に、自らは太上天皇として朝廷に臨もうとしたわけである。

 このような義満の意図は、当時天皇家において「院政」というスタイルが常態であって、直接天皇の地位を目指すよりも、上皇に収まる方が、ある意味自然な手法であるという事情があった。以下、義満の狙いと意図、その背景について概観する。

 1379年の「康暦の政変」によって管領の細川頼之が失脚し、将軍義満の親政が始まるが、まだ二十歳そこそこの若さであり、有力守護大名を統制するのは容易ではなかった。この時にあたって事実上義満の家庭教師の役割を果たし、その政権構想に多大の影響を与えた人物こそ、鎌倉五山から移って建仁寺住職となっていた義堂周信である。
 
 義堂は病により中華留学を果たさなかったが、宋学の意図や四書の新注もよく理解し、当時日本における最高の儒学者であった。1380年8月、紀伝博士の菅原秀長は義満に八朔(はっさく)の祝儀として『孟子』の写本を献じたが、義満は関心すら示さなかった。

 それを伝え聞いた義堂は、同年11月、義満に「儒書中、宜く孟子を読むべし」と勧めたので、義満は目が覚めたように孟子に熱中した。孟子は元来、「民を以て重しと為す」とする民本主義を含み、また禅譲放伐を是認するという朝廷にとっては危険思想の面を持つ。
公家界の最高権力者になった足利義光(Wikimedia Commons)
公家界の最高権力者になった足利義満(Wikimedia Commons)
 理解力の早い義満が孟子に傾倒することを危ぶんだ義堂は、義満を禅宗へ誘導せんとしたものの、時すでに遅し、義満は放伐是認にはまり込み、「力のある者が位も上にあるべきだ」という、歴代武家中にも例がない考えを抱くようになった。

 歴代武家で、太政大臣となった清盛を除き、執権北条氏や義満以前の足利二代は、官位が大納言止まりであった。ところが、義満は位階昇進を踏んで清盛も実朝も経験しなかった大臣に昇り、公家界の最高権力者になった。

 このような義満の破格は、摂政二条良基はじめ、有力公卿が義満に迎合した故であり、重臣たちに裏切られたかたちとなった後円融上皇の焦慮は深く、一時は自殺を企てるなど、義満との溝は深まった。

 一方、幕府の首長としての義満は、美濃の乱、明徳の乱、応永の乱と、次々に有力守護を挑発しては謀叛に追い込ませ、ことごとくこれを弾圧した。このような義満の強勢を見ては、斯波・畠山らの宿老も義満に批判はあっても諫言すらできず、後円融上皇が崩じ、南北朝が合一して以降は、義満の専制権力が確立した。