小島伸之(上越教育大准教授)

 初めての海外旅行に臨む日本人が、ビザ申請や入国審査で記入する書類の「Sex」欄に「未経験(Inexperience)」と書いて恥をかいた、という海外旅行が珍しかったころからの古典的なネタがある(戦後日本で海外旅行が一般化したのは1970年代以降である)。

 最近はF(astはやい)、M(ediumそこそこ)、それ以外という新ネタもあるようだが、あくまで大人のジョークの世界である。現実的な問題となりうるのは、「Religion」(宗教)の欄にどう書くべきか、ということである。

 日本的な普段の感覚をもとに「なし(None)」とか、辞書を引いて「無神論(Atheist)」と書くことは避けるべきとされている。なぜなら、それによって冷笑されたり、不審がられることがあるからである。SNSプロフィールの宗教の欄や、直接の会話で「あなたの宗教は何ですか」と聞かれたときも同様であり、私的な人間関係において「無神論者」は露骨に敬遠・警戒される場合がある。

 宗教文化にもよるが多くの外国人から見て、無神論者は、他者の信仰を含めてあらゆる神を認めることを積極的に拒否する者とみなされ、宗教こそが倫理や道徳の基礎となってきた宗教文化圏においては、無神論者は自らを日本語における「無法者」「ならず者」であると宣言する存在と見られる可能性がある。
 したがって、こだわりがなければ「仏教者(Buddhist)」と書け、「神道者(Shintoist)」でもよい、本人の自覚はさておきそうするのが無難とのアドバイスが旅行者に対して事前にされることもある。

 むろん日本人にとっては、特定の信仰の有無と倫理意識・道徳意識の高さが直結しているという意識は薄く、「無宗教」の人物がすなわち「無法者」「ならず者」であるという感覚はない。

 むしろ、阪神大震災や東日本大震災による混乱に際しても、火事場泥棒はあれども大規模な暴動や略奪が生じなかったことを外国人が不思議がったように、日本人の倫理観・道徳観は国際比較の観点から相対的にかなり高いともいわれている。

 ここには、相対的に高いとされる倫理観・道徳観が特定の宗教と無関係であることが、少なからぬ外国人には理解しがたいというカルチャーギャップが存在しているのである。

 このカルチャーギャップは歴史的にもきわめて大きな問題であった。幕末以降日本が国際社会に積極的に再参加するに際し、非キリスト教国である日本が「文明国」であるということを当時の列強諸国(キリスト教諸国)に理解してもらうことが必要となったからである。

 かつて明治期に新渡戸稲造が「武士道」という概念を用いて(『BUSHIDO The Soul of Japan』1899年)、また穂積陳重が「祖先教」という概念を用いて(『Ancestor-Worship and Japanese Law』1901年)、キリスト教国ではない日本も、倫理的・道徳的な「文明国」であるという説明を欧米で試みたのも、まさにこのギャップを埋めるためであった。

 ちなみに、伊藤博文は、「帝国憲法制定の由来」(大隈重信撰・副島八十六編『開国五十年史』上、開国50年史発行所、1907年)で近世以来の日本社会の「文明性」を主張しているが、そこで展開される日本社会論の説明には「郷党社会」というキーワードが用いられ、日本社会の特徴は神道や仏教などの宗教とは関連付けられていない。