向谷匡史(作家)

 街を歩けば、そこかしこでコンビニを目にする。全国で約5万5千店。過当競争とも聞くが、「これだけあって、よくメシが食えているな」と、経営努力に頭が下がる。

 ところが宗教団体の数はそんなものではない。仏教系単位宗教法人だけで約7万7千、これに神道系やキリスト教系など諸々を合わせれば18万余りが全国に散らばっている。宗教離れが指摘され、「日本人は無宗教」と言われながら、これだけの数が存在していること自体が驚きである。「よくメシが食えているな」という感慨どころか、目をむいてしまう。不謹慎かもしれないが、晩年に至って僧籍を得た私の、これが率直な感想である。

 日本人が無宗教であるかどうかはともかく、宗教に対して一定の距離を置いていることは、一般の人でも皮膚感覚でわかるはずだ。

 「私は××宗の熱心な信者なんです」
 初対面でこう言われれば、
 「それはそれは」

 と当たり障りのない応対をしながら、「この人、ちょっと変わっているな」と距離を置きたくなる。

 反対に、「人間、死ねば粗大ゴミ」「葬式なんかするわけがないでしょう」「地鎮祭? バカなこと言わないでください」―と鼻で笑う人に対しても、「ちょっと変わっているな」と距離を置きたくなるだろう。

 宗教に対するこの「微妙な間合い感覚」が、現代日本人の「宗教観」ではないか。宗教心について各種調査を見れば、「自分は無宗教だ」と公言する日本人は少なくないが、そのうちの大半が「宗教心は大切だ」と答えている。この矛盾と「精神的なゆらぎ」に、私は現代日本人の実相を見る。

 儒教が日本に入ってきたときから、すでに日本人の無宗教化が始まったともされるが、浅学の私に大所高所からの考察はできない。道俗―すなわち、物書き(俗)と僧侶(道)のはざまに立つ「小所低所」から私見を述べたい。

 去る4月8日、全国のお寺で「花祭り」(灌仏会[かんぶつえ])が行われた。釈迦(しゃか)の生誕を祝うもので、子供たちがお寺に集い、白い像を引き、稚児行列が行われるのだが、「それは大きなお寺だけですよ。うちなんか、子供の参加者が年々減ってきて、今年は10人足らずでした」と、知人の住職がボヤきながら、子供が「寺離れ」する理由の一つとして、境内を遊び場として提供できなくなったことをあげる。

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 「いまの時代、墓石が倒れて大ケガでもしたら訴訟沙汰になりますからね。本堂の手すりから落っこちてでもすれば管理責任を問われかねない。そんなことを考えると、怖くて『遊び場にしてください』とは言えないんです」

 本山は地域と密着する場として、末寺に寺の開放を求めるが、「何でも訴訟」という社会風潮は、お寺をも萎縮させているということになるだろう。幼児が遊びに来なければ若いママも来ない。若いママたちは公園に集まり、公園ママ友になっていく。「境内を交流の場とする境内ママ友なんてことになればいいんですが、現状では無理でしょうね」と、この住職は嘆息する。

 若いママが「お寺離れ」すれば当然、両親・祖父母の葬儀は簡素化の一途をたどる。「葬儀はしません。納骨だけお願いします」と檀家(だんか)の嫁さんから電話があり、「うちは霊園じゃねぇ!」と思わず叫びたくなったと、別の住職は自嘲する。「宗教心は大切だ」とアンケートに答えはしても、宗教離れは確実に進行していることが、現場では皮膚感覚としてわかるのだ。