日本人が「無宗教」を堂々と口にするようになったのは、先の敗戦が大きく影響しているのではないか。天皇という現人神(あらひとがみ)の「人間宣言」によって価値観が一変。論理と科学に代表される西洋文明が一気に押し寄せた。論理的・科学的に証明されないものを排除し、現代に至ってそれがますます先鋭化してきたように思う。

 私が僧侶の立場で浄土往生を説けば、「浄土ってどこにあるのよ」と、必ず意地悪い質問が飛んでくる。

 「お浄土は人間界から西方はるか10万億の仏土を隔てたところにあり、阿弥陀如来を教主とし…」

 説明を始めるが最後まで聞かず、「それって、証明できるんですか?」とツッコミを入れてくる。科学的に証明できるかどうか、これが価値判断の基準であって、「地獄極楽の存るを問うな。わが心に地獄の棲むを問へ」―という生き方論など「坊さんのたわごと」というわけだ。

 それに加えて拝金主義。任俠道という精神性を標榜するヤクザですら、バブルを境に「経済ヤクザ」なるものが登場し、「マネー・イズ・パワー」と嘯(うそぶ)いてはばからない。私は空手道場をやっているが、そういう社会風潮にあって、「清く正しく美しく」と説教しても子供たちに通じない。「縁の下の力持ちになれ」と言えば「そんなの損じゃん」と口をとがらせる。「だます人よりだまされる人になりなさい」と言えばキョトンである。

 戦後70年を経て、これが日本の行きついた先であり、現代日本人の「無宗教」は、宗教論として論じるよりも、精神世界を失いつつある結果であると私はとらえている。

 その一方、宗教離れを論じるとき、スピリチュアルブームが引き合いに出される。「精神世界を失いつつあると言うが、スピリチュアルはブームになっているではないか」という主張で、これは既存宗教の怠慢であるという批判でもある。

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 だが、私はこう考える。人間の意識は常に振り子のように揺れているため、科学万能主義に厭(あ)きてくると精神世界へ回帰していく。既存の宗教に回帰しない理由は、赤ちゃんが玩具に厭きて放り投げるとそれには見向きもせず、新たな興味を引くものに手を伸ばすのと同じである―と、いささか乱暴に考えるのである。

 時代がどう変わろうとも、死に対する根元的な恐怖、天変地異、そして日々を生きることの不安と苦悩から私たちが逃れられない以上、死後の救済を説き、心の安逸に資する宗教は決してなくならない。「宗派・教団」には経営努力が求められ、ここにおいて「宗教」は一線を画する。「日本人はなぜ無宗教なのか」という問いに対して「無宗教も宗教」と揶揄(やゆ)するのはたやすいが、日本人の少なからざる人が無宗教と公言し、それが戦後の時代風潮のなかで加速してきた現状について、今一度、考えてみるべきではないだろうか。「小所低所」からの私の提言である。