前川惠司(ジャーナリスト、元朝日新聞ソウル特派員)

支援団体に踏みにじられた元慰安婦たち

 「日本が挺対協の人たちに妥協する必要性は絶対にない。あの人たちは、(元慰安婦の)おばあさんたちを踏みにじっています。おばあさんたちは、あの人たちにセカンドレイプされているようなもの。それをコントロールできない韓国政府は何とだらしないのか」

 朝日新聞の「誤報取り消し」と「謝罪」でも、日韓間で慰安婦問題解決の兆しは見えない。どうしてか。

 慰安婦問題の解決のために日本が官民一体で1995年に設立し、2007年に解散した「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)の元理事、下村満子さんに尋ねると、冒頭のように厳しく韓国の対応ぶりを責める言葉が返ってきた。

 下村さんが言う“挺対協”とは、「韓国挺身隊問題対策協議会」の略称だ。慰安婦問題の解決を日本に迫る韓国の市民団体の一つで、女性人権団体を母体に結成された。

「日本政府は法的責任を認め、国家賠償し、責任者を処罰すべきだ」と主張し、ソウルの日本大使館前に慰安婦の像を建て、この像を囲むように毎週の「水曜デモ」をしていることで知られる。アジア女性基金による元慰安婦への「償い金」の支払いや首相の手紙による解決には強く反発。97年1月に、アジア女性基金が韓国で初めて、韓国の元慰安婦7人に、当時の橋本首相のお詫びの手紙とともに各500万円の「償い金」の目録を渡した直後には、「アジア女性基金の金を受け取ることは、ふたたび汚れた金で身を売ることだ」と、元慰安婦のおばあさんたちを締め上げて受け取り拒否を強要した。

 下村さんはこうも語る。

「挺対協のメンバーと来日した慰安婦のおばあさんが、『宿泊所に閉じ込められ、外に出るなと言われて嫌になる』と電話をかけてきたこともあります。おばあさんたちは、内心で挺対協を恨んでいましたが、挺対協が怖いから、公の場に出てこいと言われれば出て行き、デモをしろと言われればデモをした。気の毒な弱者でした」


右も左も昔から反日

 これでは元慰安婦のおばあさんたちを抑圧しているのは挺対協ではないかと言われても仕方ないだろう。いったい、どのような組織か。

 挺対協の尹貞玉元共同代表は、韓国一の名門女子大、梨花女子大出身で、同大教授という経歴の持ち主だ。金大中元大統領の夫人とは同窓だ。「挺対協のほかの主要メンバーも、大学教授や弁護士、学者、金持ちなどのインテリ層ばかり」と関係者は口をそろえる。韓国社会の女性エリート層が主導する団体なのだ。

 挺対協や元朝日新聞編集委員の松井やよりさんらが中心となった1992年、ソウルでの「アジア女性会議」や、「昭和天皇有罪」を宣言した2000年、東京での「女性国際戦犯法廷」の開催に協力した「日本基督教婦人矯風会」の高橋喜久江さんは、尹貞玉元共同代表とは80年代、韓国のキーセン観光などアジアの売買春反対運動で知り合ったと話している。このつながりのなかで、尹貞玉元共同代表は、韓国民主化以後に慰安婦問題で日韓共闘を始めたが、資料などは日本側にほぼ頼っていたと言われる。

 ところで、キーセン観光は、当時は世界の最貧国だった韓国が同胞女性の肉体でドルを稼ごうとした、朴正煕政権の国策的な事業だった。それだけにキーセン反対運動の実際は、反日運動であり、同時に朴正煕政権打倒運動だったと見るのが正しいだろう。

 65年に日韓国交正常化を実現させた朴正煕政権は、日本からの経済支援での国づくりを進める一方で、強烈な民族主義も掲げていた。娘の朴槿恵現大統領が、伊藤博文を暗殺した安重根の記念碑建立を中国に要請したことから今年1月、記念館が暗殺現場のハルビン駅にでき、日本社会の反韓感情をさらに刺激したが、ソウルの「安重根義士記念館」は70年に朴正煕政権の肝いりで開設されている。ハルビンの記念館は朴槿恵大統領にしてみれば、父の気持ちを継いだだけということだっただろう。

 余談だが、日本で人気の青磁や白磁を、民族文化の継承として復活させたのも朴正煕大統領で、ソウル郊外の利川に陶芸村をつくった。もっとも、この陶芸再興の狙いには、キーセン観光に来た日本人男性客に売りつける土産品が何もない中で、日本人が好きな陶磁器に目をつけたこともあったそうだ。なかなか逞しい商才だ。さらに脱線するが、韓国の陶芸専門家から、昔と同じ土が韓国内でほとんど見つからないため、かつての味わいがうまく再現できないという話を聞いた。

 韓国の「反日の殿堂」と呼ばれる天安市の独立記念館は、独立運動家などが日本の官憲に残酷な取り調べを受けている蝋人形の展示や、悲鳴の擬音などで日本でも知られている。ここも全斗煥軍事独裁政権時代に建設されている。慰安婦問題に火がついた92年にソウルの日本人学校中等部の生徒が見学に出かけた様子がテレビ朝日で放映された。このときの後日談を、当時の校長から聞いたことがある。日本に留学中の韓国人青年から「韓国の子どもたちに自国の正しい歴史を教えず、植民地時代が残酷であったとだけ強調し、いたずらに反日感情を掻き立て、日本を憎むことが憂国だと勘違いさせるところが、独立記念館だと思っている。あそこは軍事独裁政権が、自らの非道を誤魔化すために、国民に募金させて作った施設だ」という手紙が届いたというのだ。

 日本では一般的に、朴正煕や全斗煥の反共政権は親日で、進歩派左翼政権は反日だと感じている人たちが多いようだが、どちらにも己の正当化の手段としての反日の論理が内包されていることが分かるエピソードだ。
 反日と韓国ナショナリズムは一体化している。それは、「いつかまた、日本が侵略してくる」という恐怖心が韓国人の深層心理のなかに潜んでいるからだろう。解放直後に、「米国の奴らを信じず、ソ連の奴らにだまされるな。日本の奴らが立ち上がるから、朝鮮人は気をつけろ」という言葉が流行ったことは、元東亜日報記者の李鍾珏さんが、「韓国いまどき世相史」(亜紀書房)で書いている通りだ。

日本人支援者も入国拒否

 話を慰安婦問題に戻そう。挺対協をはじめ韓国側に非があると指摘するアジア女性基金の関係者は、下村さんだけでない。今年8月に韓国メディアの訪日取材団のインタビューに応じた同基金理事の大沼保昭明治大学特任教授は「どれほど謝罪しても韓国は満足しないという空気が日本にある」と述べ、「日本の右傾化をもたらした理由の一つに、日本側の解決努力に対する韓国側の冷ややかな評価をあげた」と韓国で報じられた(同月31日、韓国聯合通信ウェブ版)。大沼教授は、挺対協が、慰安婦問題を、「慰安婦だったおばあさんたちを幸福にするために解決する」という観点でなく、「韓国社会に根深い反日問題へと持って行った」とも指摘している。

 韓国メディアへの発言の真意を大沼教授に直接尋ねた。「韓国の市民社会は成熟していると期待していた。しかし、そうでなかったことにもがっかりしているが、最後までお互いに絶望せずにやろうよ、そのために韓国のメディアも反省して欲しい」という主旨での発言だったそうだ。韓国の取材団も大沼教授に、「私たちも、挺対協の言い分だけをうのみにしていた点は、問題があった」と打ち明けていたそうだ。

 元慰安婦のおばあさんたちは、日本に国家賠償を求める「東京従軍慰安婦訴訟」を91年に起こした。この訴訟の支援を日本側で続けた「日本の戦争責任をハッキリさせる会」の臼杵敬子代表は、韓国人元慰安婦が初めて「償い金」などを受け取った97年1月の約半年後、韓国当局から入国禁止措置を受けた。
 臼杵さんは入国拒否についてこう語る。

「入国拒否になる前に、韓国大使館から接触があった。訴訟の打ち合わせもあるし、韓国のためにやっている人間をどうして入国拒否するのかと聞いたら、挺対協が法務省と外交通商省に、臼杵は基金を受け取れと言って動いているから入国させるなと申し入れたという返事だった」

 挺対協に逆らって金を受け取ったおばあさんたちは、強烈ないじめにあっていた。脅迫電話が絶えず、日本の支援者が1万円ずつ出しあって、電話機を録音機能のあるものに替えた。ただ、おばあさんたちもやられる一方ではなかったようだ。臼杵さんの話だ。

「外交通商省の担当者が挺対協の方ばかり見ていて、自分らの意見を封殺していると怒ったおばあさんたちが、外交通商省に押しかけて、エレベーターの前で担当者のネクタイを引っ張るようなこともあった」

 そうした動きのバックに臼杵さんがいるのではと疑った末の入国禁止でもあったのだろう。日本からの「償い金」を受け取ったために挺対協のメンバーに罵倒されたおばあさんの一人は、こう悔しがったという。

「私だって、母が幼いときに亡くならなければ、尹貞玉さんと同じように梨花女子大ぐらい卒業できた」

「在野」勢力が次の権力となる韓国の政治風土

 それはともかく、一市民団体がどうして政府まで動かし、入国禁止措置を取らすことまで可能なのか。それは、民主化闘争を担った反政府団体の発言権が、87年の民主化実現で一気に高まったからだ。93年の金泳三政権誕生とともに、日本側の解決策としての河野談話発表からアジア女性基金設立への流れが始まったのだが、大沼教授は、「この問題は日韓基本条約の請求権協定で解決しているが、道義的立場からアジア女性基金を作ったことを、村山内閣の五十嵐広三官房長官が直接、金泳三大統領に伝えた。韓国側は批判したり妨害したりしないとの回答を得て、本格的にスタートしたとたんに、挺対協などの支援団体が強硬に反対し、それが日韓のマスコミに増幅して報道された」と振り返る。

 96年、慰安婦を「性奴隷」と規定し、日本に国家補償を要求するクマラスワミ報告が国連人権委員会に提出されると、挺対協と同調する支援団体はさらに勢いづく。その暴風雨下で金泳三政権は揺れに揺れ、アジア女性基金を支持するほとんど唯一といえる団体だったハッキリ会代表への入国拒否へとなったのだ。

 韓国では、その時々の反体制派などを「在野」「運動圏」と呼ぶ。南北に分断し、地域、保守と進歩、世代、階層などの激しい対立が重なり合う韓国には、今日の敗者が明日の勝者となる政治風土がある。在野とは、そうした「明日の権力者」がだれになってもおかしくない、韓国の対決の社会が生んだ勢力だ。

 98年の左派進歩政権、金大中政権の誕生で、アジア女性基金の運命は決定づけられたと言える。軍事独裁政権下で金大中氏の反独裁闘争の一翼を担った層が加わる挺対協は、まさに「権力」になったからだ。

 その年の雑誌「世界」10月号のインタビュー記事で、訪日を前にした金大中大統領自身が、「我々は国民基金のお金をハルモニ(おばあさん)たちが受け取るのに反対しました」と述べ、アジア女性基金という卓袱台をひっくり返したことを強調した。前政権を完全否定することで新政権が正当性をアピールするのが常の朝鮮半島の長い政治風土のなかで「在野」が権力と一体となった時、どのような力を発揮するかの好例でもあるが、こうした事態に至った時、日本政府や関係者の対応はいかがだったか。検証しなければならないところだろう。それにしても、当時の小渕恵三首相とともに、「21世紀に向けた日韓パートナーシップ」を宣言し、日韓関係の改善に力を発揮したと評価されがちな金大中大統領だが、慰安婦問題で見る限り、政権の沃土といえる「在野パワー」に煽られ、今日の日韓の深刻な対立を引き起こした大統領だった、ともいえるのではないか。日本側に、在野を説得する迫力が欠けていたことが、最大の要因ではあるにしても…。

 大沼教授、五十嵐官房長官、原文兵衛アジア女性基金初代理事長、それに東京従軍慰安婦訴訟の高木健一弁護士は、アジア女性基金に先立つ、サハリン残留韓国人問題で、訴訟の結末とは別に、日本政府の資金でサハリン残留韓国人の韓国永住帰国を実現させた。その成功体験を、アジア女性基金に重ねすぎたとの見方もある。尋ねると大沼教授は、「サハリンとの違いは、超党派の国会議員による応援団ができたか、できなかったかにある」と答えた。なぜ、できなかったのか。そのことも今後の検証課題だろう。

 大沼教授は、朝日新聞がアジア女性基金の償い金などを否定的にとらえ、「元慰安婦個人への国家補償が正しい」という主旨の報道を主に社会面で続けたと残念がる。先の下村さんも、「国交正常化の時の請求権協定からして、挺対協が主張するような国家補償はありえない」と見ている。そうした中で興味深いのは、先の大沼教授のインタビューで、韓国メディアの記者は、慰安婦報道の反省として、「挺対協を鵜呑みにした」ことを挙げていることだ。

 このことは、朝日新聞などの日本マスコミの当時の報道姿勢や論調に韓国マスコミが影響を受けて、挺対協の主張が韓国でより説得力をもっていく結果になったということを物語っているのではないか。

 韓国では、軍事独裁政権の言論弾圧下、事実を追えば記事が書けなくなるという現実の中での「事実」の軽視、一方での新聞資本と政権との「もたれ合い」への疑惑などで、国内メディアより日本の報道が影響力を持つ時期が長く続いた。

 92年1月の宮沢喜一首相(当時)の訪韓直前、日本軍が11歳の韓国人少女を慰安婦にして弄んだなどの根拠のない話を東亜日報が報じ、韓国社会は激高したが、これは、作り話だった「吉田証言」を明らかに下絵にした誤報であっただろうことが、好例のひとつだ。

 朝日新聞は、「吉田証言」などをめぐる誤報が、日韓関係などに与えた影響を第三者委員会が検証するとしているが、慰安婦報道の全体を、社説やコラムを含めて検証しなければ、朝日新聞の慰安婦報道がどのように韓国社会に刷り込まれていったかは分からない気がする。

 韓国の大学教授らの話では、現在の挺対協尹美香代表の夫らが北朝鮮スパイとして疑われ有罪判決を受けたことや、これまでの活動内容から北朝鮮のために活動する従北団体ではないかとの見方が出て、韓国社会でも挺対協への批判が強まり、影響力は減っているという。だからだろうか、韓国メディアによる大沼教授へのインタビューでは、アジア女性基金の再稼働による問題解決の可能性も問われた。大沼教授は「現在の日本の右傾化した雰囲気のなかでは受けいれることはできないだろう」との見方を述べている。こうした卒直な見方を、韓国はどう受け止めるだろうか。

200年後の補償は誰のため?

 韓国政府に登録された元慰安婦236人のうち、今年6月の政府「河野談話検討チーム」の報告書では、償い金を受け取ったのは61人だった。
 冒頭の下村さんにもう一度語ってもらおう。

「挺対協の人たちは、200年戦争だ、とも言っていた。彼らが反日運動をやるのは自由だけど、おばあさんたちがどんどん死んで、仮に国家賠償が20、30年後に取れたとしても何なのですか、みんな死んでいるでしょうと、いくらいっても、おばあさんが死のうが生きようが、我々には関係ないと言っていた。おばあさんたちに償い金をもらわれてしまったら、彼らの運動は終わってしまうから、人権とか尊厳とかは口先だけでおばあさんのことを反日運動の看板として利用しているだけだ」

 臼杵さんは、こう語る。

「ジャングルの中を兵隊と手をひっぱりあい進んだおばあさんもいた。部隊の中に、おばあさんを助けた兵隊さんが何人かいたケースもあったろう。恋仲になった日本の兵隊の名前を万年筆のペン先で彫った刺青を右手にしていたおばあさんがいた。平和な時が来たら一緒になろうねと約束して、彫りあったようだったが、その広島出身の飛行機乗りは戦死してしまったそうだ。日本の兵隊だって1銭5厘で集められた命。お互いに青春時代、いつ死ぬか、殺されるか分からないなかで出会った、ある意味ではピュアな間柄の面もあった。しかし、おばあさんたちは、挺対協の調査でそんな一面は言えなかっただろう」

 おばあさんの相当数は、体験のすべてを世に向かって語ることなく亡くなった。

 大沼教授は、性差別や女性への抑圧をなくし、女性の権利拡大を目指す世界的なフェミニズム運動の高まりが、挺対協による国際的な運動の展開に時の利を与えたと見ている。それは確かかもしれない。

 臼杵さんが明らかにする、おばあさんたちの「思い出話」は、フェミニズム運動などの勇ましい言葉とは無縁のつぶやきでしかないかもしれない。

 しかし、20世紀が戦争と帝国主義の時代だったとしても、その実相は、おどろおどろしい被害の誇張だけでは捉えきれないはずだ。辛い日々であったことは変わりないだろうが、同時に夢や幸福、人と人とのつながりがあったことも伝える支援運動であったなら、日本社会の受け止め方は、今とはもっと違っている結果であったかもしれない。

 もしかしたら、慰安婦問題の解決の糸口は、日本政府が時間をかけ、おばあさんたちの心のある事柄を丁寧に掬っていき、そこから拾い上げた事実を残そうとする作業のなかにあったのかもしれない。

 最近の産経新聞元ソウル支局長起訴事件。そして、今回の仁川アジア大会でもそうであったが、国際的なスポーツ大会で相手国選手への非礼や不正疑惑が当たり前のように飛び出すのは、自分たちが勝てばよい、俺たちの主張さえ通ればいいというウリナラ(我が国)主義が、依然として跋扈しているからだろう。
 挺対協もまた、普遍的な法治や公正よりも、民族的ナショナリズムがすべてとする韓国社会の裏返しの姿のひとつかもしれない。

 挺対協を構成する女性団体は、ベトナムでの韓国軍の残虐行為や米軍慰安婦問題へと、追及のテーマを変えつつあるように見える。二つはともに、朴槿恵大統領の父親の朴正煕時代に起きた韓国現代史の恥部でもある。韓国在野は、すでにポスト朴槿恵を巡って、保守勢力との政治闘争に入ったようだ。絶えず、前政権を生贄にしようと牙をむく政治風土のなかで、朴槿恵政権が日本との妥協に舵を切れるかどうか。日韓国交正常化50年に突き刺さるとげは容易に抜けそうはないようだ。