著者 H・N おじむ(和歌山県)

 およそ国家において「法」と名のつく文言が自明の理として備えていなければならない要件は、私の考えるところによれば、第一に「秩序を維持するためのもの」であること、第二に「正当な手続きによって成立したもの」であること、第三に「実効性を備えたもの」であること、以上の3要件すべてを満足していなければ「法」としての体裁を成していないと判断し、それが原因となって実害が発生しているのならば改正もしくは廃止を主張するところとなります。
 あくまでも「私の考えに基づくもの」とすることを前提として示せば、「法の秩序」とは主権者の利益を保護するための規範であり、必ずしも善悪を反映するわけではありません。「正当な手続き」とは主権者の承認であり、正式ではあっても必ずしも正当とは限りません。「実効性を備える」とは法の趣旨と文言が矛盾しないもので論理的に破綻しないことです。

 これらの観点から現行の「日本国憲法」を思うにあたり、正直な感想を述べると「なんとまぁお粗末なものを」と自虐的なおかしさすら感じます。まず最も肝心な「主権者」は誰か? という点についてですが、以下に「日本国憲法前文」を示します。

日本国憲法前文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 この前文によって明らかにされているのは、主権者が「国民」であること、国民から信託を受けた代表者がその権利を行使すること、その利益は国民が享受することが定められています。また「基本的人権」の概念や「平和主義」の精神がうたわれ、「理想国家の実現」が宣言されています。

 ただ、一国の法の権限の及ぶ範囲は、その国家の領域内のみであり、他国を規定することはできません。それにもかかわらず他国のありように言及する部分があるのは独善的で、いささか専横に過ぎるかと思われます。

 一国の国内法でありながら、複数国を実効的に規定する法律が実は存在します。「アメリカ合衆国憲法」です。アメリカはいくつもの国の集合体なのです。その価値観を取ってつけたように日本国にあてはめたようなものなのですが、残念ながら日本国は合衆国ではないということに気がつかなかったようです。

 合衆国仕様の法規を単一国に採用した結果、至る所で不具合が生じています。まず自国の平和を他国の善意に委ねるかのような表現は随分と他力本願的であり、自立心に欠けているとも感じます。他者に価値観を押しつけながら自らは受け身であるとは奇々怪々です。

 国の定義ともいえる憲法のこのような姿勢が国民の性質に影響を及ぼしてはいないかと懸念します。自ら思考したというよりも、「言わされた感」が強いと感じています。有体に申しますと「いかにもアメリカ人の考えそうな」という印象を受けます。しかしながら第一要件である「秩序の維持」に逆行してはいないようです。