毎年12月に入ると、東京・霞が関にある大蔵省一、二階の主計官室には、全国津々浦々から山海の珍味、銘酒が集まり、うず高く積まれる。地方からの陳情団が大勢で押しかけては、手土産を置いていくのである。

 地方の関係者を引き連れ、たかが課長である主計官にペコペコと頭を下げている国会議員の中には、たまに大臣経験者もいたりする。交通費や土産代が地方の税金から出ているとしたら、壮大な無駄遣いだが、さらに国の主はだれかと考えると、寒々とした光景に思える。国家予算は、国民や国民を代表する政治家ではなく、一握りの官僚が牛耳っているといっても過言ではない。

 今からもう30年近くも前の昭和39年9月、第一次臨時行政調査会は、内閣機能に関する改革意見をまとめたが、そこには次のように書かれている。

 「大蔵省は事実上、内閣にかわって予算を編成し、決定する実権を握っているのであるが、さらに予算執行の段階においても、協議ないし承認を通じて各省の主要な施策の実施に対する予算執行上の権限を留保しており、これらの結果、大蔵省の権限は他省に比して著しく強大なものとなっている。大蔵省といえども各省と同列の行政機関であり、(中略)その大蔵省が同時に、行政の全般的調整の役割を果たそうとしているところに種種の問題があるわけである」

 事態はいまだに、一向に改善されていないのだ。いや、年々悪化しているとさえいえる。長期にわたる自民党政権は、官僚に対する力を蓄えたものの、その一方で数々の族議員を生み出し、有力政治家がこれを束ねて、大蔵省に圧力をかけるようになった。

 大蔵省主計局はどうかというと、大臣経験者といえども力のない政治家の要求には「ノー」という断固たる姿勢を堅持するとともに、限られた予算の枠内で、有力政治家の要請は受け入れるという不公平な予算配分機関と化してしまったのだ。田中角栄元首相の地元・新潟への利益誘導、再びきな臭くなってきた整備新幹線問題など、その例証には事欠かない。

 大蔵省以外の役所では、「父親(首相)でなく、母親(大蔵省主計局)がサイフを握っているのが問題だ」「きちんとした調整役がおらず、調整役を買って出ている自民党が好き勝手にやってしまっている」という批判が相次いでいる。現行制度の欠点をきちんと認識しているのである。

 こうした矛盾は、予算を官僚に任せて首相が指揮を執ることのない無責任体制、予算編成の事前チェックができない無監視状態からきている。首相がいくら「生活大国」を唱え、住宅政策に力を入れるといっても、シーリング(予算要求の概算要求基準)とシェア固定の壁に阻まれ、住宅への予算配分が大きく変わることはない。

 安くて快適な公営住宅が増えれば、需給関係から民間賃貸住宅、持ち家の価格も下がるはずだ。しかし、重点配分されるのは常に道路であり、本当に利用者がどの程度いるかどうかはお構いなく、自然環境の破壊を伴いながら、水田や山林の中を幅の広い道路が通される。そして、沿道の民家にはまだ下水道も備わっていないというアンバランスな状況がつくられていく。

 また、チェック体制についていえば、都道府県別や選挙区別の投資配分が、公共事業の個所付け決定直後に発表されることはなく、公平な分配かどうか国民が判断する材料は表に出てこない。

 約30年前の第一次臨調は、首相に予算編成の責任を持たせ、直属の内閣補佐官を設置することを勧告した。補佐官は国会議員、行政事務経験者、民間有識者から任命され、予算編成上の重要事項を調整し、大蔵省はこれに基づいて事務を行う。こうした制度であれば、首相が自分の打ち上げた政策に思い切った予算配分をできるはずだ。

 しかし、残念ながら、この勧告は葬りさられた。主計局が必死になって政府・自民党に働きかけた結果だといわれている。

 霞が関のある役所関係者は、「主計局のしっぺ返しが怖いから、絶対に省の名前は書かないでほしい」と用心深く断ったうえ、「今でも首相が1兆円くらい自由に配分できたら、随分違う予算になる」と断言した。少なくとも、首相が海外に行って何も約束できない、というようなことはないはずだ。(茂谷知己)