上杉隆(メディアアナリスト)

 豊田真由子議員の秘書に対する暴行を報じた『週刊新潮』の記事を読んで思い出したのは2000年、田中眞紀子議員の取材をしていたときのことだ。
2001年8月、外務省講堂に職員を集め、人事問題などについて訓示する田中真紀子外相(早坂洋祐撮影)
2001年8月、外務省講堂に職員を集め、人事問題などについて訓示する田中真紀子外相(早坂洋祐撮影)
 鳩山邦夫事務所を退職したばかりの私は、毎週末、新潟に通い詰め、約6カ月間、永田町で噂になっていた同議員の秘書への「暴行」を取材していた。

 取材結果は想像を超えるものだった。朝から晩まで議員に罵倒され続け、退職に追い込まれた者。買い物のおつりをくすねたと誤解され肉体的な被害を受けた者。失敗の反省を紙に書かせて、正座しながら大きな声で繰り返し朗読させられた者。

 どの元秘書に取材しても、予想を超える「暴行」の証言ばかりで、取材する側の私の方がすっかり気分を悪くしてしまった。

 記事は、2001年の『週刊文春』新年合併号に8ページにわたって掲載された。直後から私自身への猛烈な批判が待っていた。いわく「作り話だ」「陥れるための記事だ」

 時はちょうど眞紀子ブームの全盛期。アンケートでは総理大臣にしたい政治家ナンバーワンの人気を誇る政治家への批判ということもあって、当初、すべてのメディアが「そんなバカな話があるはずがない」と決めつけ、後追い取材をするメディアもなかった。

 ところが、その4カ月後、小泉政権で田中眞紀子氏が外務大臣に就任すると、外務省内で同様の騒動が起き続け、メディアの状況も一変、産経新聞が一面で私の記事を紹介する形で報じたのを皮切りに、議員秘書への「暴行」がようやく世に問われることになったのだ。

 いま思えば、当時の永田町では、議員による秘書への「暴行」「虐待」などは決して珍しい話ではなく、テレビや新聞などでは報じられない「闇の世界」が日常化していた。

 多くの政治記者たちも議員による秘書への暴行話を見たり聞いたりしながらも、それがあまり問題視される時代ではなかったのだろう。

 実際、他の議員事務所を取材した当時の私自身も、軽度の「暴行」は容認していた気がする。

 私が議員秘書として鳩山邦夫事務所に入った1994年は、まだ国会議員の秘書稼業は丁稚奉公(でっちぼうこう)的な色合いを深く残しており、忠誠心を持って議員に仕え、ときに身代わりとして自己犠牲すら厭(いと)わない秘書こそが優秀な秘書とされている時代だった。

 たとえば、「経世会」(旧田中派)の秘書会の大先輩が、議員のスキャンダルが報じられた後、自ら命を絶ったという話も「秘書の鏡」として美談になって語られていた時代だった。