2017年07月19日 17:55 公開

日本で最も名の知られた医師の人だった日野原重明氏が18日、死去した。105歳だった。

日野原氏は亡くなる数カ月前まで患者を診続け、健やかに生きるための助言をしばしばしていた。

同僚たちからは日本の国宝と呼ばれ、東京の聖路加国際病院での名誉院長の他、5つの財団法人のトップを務めていた。

日野原氏の卓越した人生での主な出来事を以下に振り返る。

第2次世界大戦中に医師に

日野原氏は1940年代、聖路加国際病院で医師として職業人生をスタートさせた。

戦時中、東京の大部分を焼き尽くした東京大空襲では、被災者の治療に携わった。

飛行機ハイジャックからの生還

赤軍派が日本航空機を乗っ取った1970年の「よど号ハイジャック事件」では、日野原氏は客として乗り合わせていた。

日本刀やパイプ爆弾などで武装したハイジャック犯たちは、羽田発福岡行きのフライトで人質129人を取り、福岡および韓国のソウルで人質を解放した後、北朝鮮に政治亡命した。

2008年に行われた英字紙ジャパン・タイムズとのインタビューで日野原氏は、ハイジャック犯が爆発物を体に巻き付けていたと話し、交渉が決裂するのではないかとの恐怖に脅えた、と当時を振り返った。

ミュージカルの脚本を執筆

非常に音楽好きだった日野原氏は、88歳の時、日本のミュージカル「葉っぱのフレディ」の脚本を手掛けた。

ミュージカルの初公演は2000年で、日野原氏は出演もし、子供たちと一緒に踊ったと、ジャパン・タイムズは伝えている。

高齢に入ってもTV出演

日野原氏は度々テレビに出演し、視聴者に人生をもっと楽しむように、常に心待ちにする何かを持って病を撃退するように、と訴えていた。

ベストセラーとなったエッセイ集「生きかた上手」やテレビを通じ、食事や睡眠の時間について厳しく決めるのをやめるよう呼びかけた。日野原氏の最後の助言の一つには、常に階段を使い、自分のカバンは自分で持って体力を維持するというのもあった。

日野原氏はかつて、子供の頃には、楽しい時は食べるのも寝るのもよく忘れていたのを誰もが覚えている、と指摘した上で、大人でもその姿勢を持ち続けることができ、昼食時間や就寝時間など、あまりにもたくさんのルールで体を疲れさせないのが一番いい、と助言した。

日本の健康管理に貢献

日野原氏は1954年、年に1度、包括的な健康診断を行う人間ドックを導入した。これが日本の長寿に大きく貢献したと言われている。

また、高齢になっても活動的な社会生活を維持するよう強く提唱していた。

日野原氏は1990年代に聖路加国際病院の理事長に就任。ジャパン・タイムズによると、1994年には、酸素の配管を病院の建物に張り巡らせ、東京で大地震が発生し大勢が死傷する可能性に備えた。

その翌年、東京メトロでオウム真理教サリン事件が発生し12人以上の死者と数千人の負傷者が出たが、日野原氏の準備のおかげで、聖路加国際病院は大勢の患者に対処できたとジャパン・タイムズは伝えている。

「今まで会った中で一番エネルギーに溢れた人」

日野原氏死去の報を受けて、多くの人が哀悼の意を表している。日野原氏と親しかったジャパン・タイムズのジャーナリスト、川口ユディ氏もその一人だ。

日野原氏は驚くべきエネルギーと活力に溢れていた、と川口氏はBBCに語った。

「初めて会った時、日野原氏はすでに90歳を超えていましたが、当時でも1日18時間、週7日働いていたので、歳を重ねることに対する私の考えが根本から変わりました。日野原氏は、今まで私が会った中で一番エネルギーに溢れた人でした」と川口氏は述べた。

「日野原氏は、とにかく人生は貢献だと信じていました。そのため、他者を助けることや、早起きして他の人のために何か素晴らしいことをしたいという、ものすごい意欲がありました。これこそが、日野原氏を突き動かし、生かしていたものでした」

川口氏は続けた。「日野原氏は、きょう、あす、5日先の目標を常に持っていました。亡くなったのはとても悲しいです。2020年の東京五輪に参加するのが夢だったから。それが彼の次の大きな目標だったのに、達成できませんでした」

「でも日野原氏は、ただただものすごく素晴らしい人で、日野原氏に会った人は誰もが、彼のおかげでガラッと変わっていました」

(英語記事 Shigeaki Hinohara: Remarkable life of Japan's centenarian doctor