精神科医が教える「インスタ女子」心のメカニズム

『熊代亨』

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熊代亨(精神科医)

 「インスタグラム女子」がキラキラした写真を投稿するために、わざわざ着物をレンタルしたり、高価なアイテムを買って写真を投稿したらすぐ売り払ったりする…といった話を最近はよく耳にします。他人から認められない「承認欲求」を満たしたい気持ちはわからなくもないのですが、「そこまでやるか?!」と驚かずにいられません。ただ、「インスタグラム女子」の承認欲求の充足メカニズムについて立ち止まって考えてみると、昭和生まれ世代が20代だった頃にはあまりなかった、新しい感性を想定してみたくもなります。

 「何かを蒐集(しゅうしゅう)して、見せびらかして注目されたり褒められたりする」という承認欲求の満たし方は、今に始まったものではありません。
 
 昭和時代を思い出しても、たとえば「ビックリマンチョコ」に付いているレアなキャラクターシールを見せびらかしたり、アニメのキャラクターグッズをコレクションして自慢したりするとか、そういった承認欲求の充足はポピュラーでした。
 
 現在も、これに近い風景を「ソーシャルゲーム男子」にみることができます。近所の学生男子たちがソーシャルゲームの話をしているのに耳を傾けると、「俺の一番お気に入りのキャラクターは○○だ」「こないだ、ガチャ(希少アイテムが当たる有料の電子くじ)をやったら××が出た」といった弾むような声が聞こえてきて、ああ、男子は今も昔もそういうのが大好きなんだなぁと、安堵(あんど)したような気持ちになります。
 
2015年3月のマーリンズ春季キャンプで、
イチローは「ビックリマン」のキャラクター、スーパーゼウスが
プリントされたTシャツで施設入りした(撮影・リョウ薮下)
 「インスタグラム女子」は彼らとは違います。
 
 何かを蒐集して、見せびらかして、注目されたり褒められたりしたがっている点では、彼女たちも同じといえば同じです。
 
 ただし、彼女たちが蒐集しているのはモノではありません。体験であったり、関係性であったりします。というより、体験や関係性が蒐集されてキャラとして練り上げた、インスタグラムのアカウントそのものです。
 
 ビックリマンチョコのレアなキャラクターを見せびらかしている男子には、承認欲求以外にも、モノが欲しい・モノを手に入れたいという物神崇拝(フェティシズム)の傾向がありました。他人に見せびらかして注目されたいだけでなく、モノそのものに対する執着があったわけです。蒐集対象がキャラクターシールからキャラクターデータに置き換わったソーシャルゲームにおいても、この点はあまり変わりません。

 他方、「インスタグラム女子」には、そうしたモノそのものに対する執着があまり感じられないのです。最近は「モノより体験」などとよく言われますが、体験に執着しているとも思えず、どうなんでしょうか。
男子も中年も「いいね」集めるのが当たり前

 もちろん、着物をレンタルして写真を撮ったり、一日で売ってしまうであろう最新アイテムを手にしてそれらしい場所で写真を撮ったりするのも、体験といえば体験かもしれません。しかし、本当に自分自身の体験を大切にするなら、着物のレンタルはともかく、高価なアイテムを1日で売り払ったりはせず、もっと使い勝手を確かめてみるのではないでしょうか。やはり、インスタグラムのアカウントの見栄えをよくして、他人に見せびらかすことに重きが置かれていて、体験は二の次になっていると想定せずにはいられません。

 私個人としては、「プリント倶楽部」がブームになっていた90年代を思い出しても、女子という人々は、男子に比べて物神崇拝のきらいが乏しく、モノより体験を、あるいは、関係性を見せびらかして承認欲求を満たす性質が強かったように思います。そうした体験や関係性を見せびらかすためのツールとして、インスタグラムはとても便利なツールです。いや、おそらく便利過ぎるのでしょう。自分が見せたいものだけを、自分が見せたいように並べて編集して投稿できるツールが、女子の標準装備になってしまいました。これは、何気に大変なことなのではないでしょうか。

 いや、女子だけを挙げるのは間違いでしょう。今では、男子や中年男女もインスタグラムのアカウントをつくって、自分の見せたいものだけを見せたいように陳列したキャラを立ち上げて、せっせと「いいね」を集めています。それが当たり前になってしまいました。

 昨今、インスタジェニックなシーンのために買い物や旅行に狂奔する、「インスタグラム女子のキラキラアカウント」的なエピソードが、面白おかしく紹介されるのを目にします。もちろん、そのような極端なアカウントは多数派とも思えません。ですが、そういった記事に注目が集まるということは、ユーザーの少なからぬ割合が、それに近いアカウントに出合っているか、自分自身に思い当たる節があるか、どちらかではあるのでしょう。

 インスタグラムで「いいね」を集めて承認欲求を満たすことに夢中になっている人たちは、モノを、体験を、関係性を、どこまで愛しているのでしょうか。もし、本当は承認欲求にしか眼中に無くなって、そのためなら手段を選ばなくなってしまっているとしたら、その人は本当に幸福だといえるのでしょうか。そのあたりが、私にはよくわかりません。

 ただし、インスタグラムで「いいね」を集めまくっている現代人を、不幸でかわいそうな人々だと言い切ってしまうのも難しいように思います。
「盛りまくって」も気にしない

 ひとこと承認欲求を満たすと言っても、20世紀末のころのそれと、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)やインスタグラムを誰もが使用するようになった現代とでは、その前提となる感性が違ってきているように見受けられるからです。

 20世紀末においても、承認欲求は人々の重要なモチベーション源でした。高級ブランド品を買ったり、海外旅行に出かけたり、プリント倶楽部を撮ったり… とにかく、承認欲求を満たすための手段になりそうなものには片っ端から手を出していました。
 ただ、あの頃の人々が承認してもらいたかったのは、「あるべき自分」や「本当の自分」ではなかったでしょうか。

 自分自身から乖離(かいり)したキャラをではなく、「あるべき自分」や「本当の自分」をできるだけ磨き上げて、他者に注目されたり褒められたりして承認欲求が満たされたい-この大原則に沿ったかたちで、モノを買ったり、体験を買ったり、関係性を維持したりしていたのが、20年ほど前にはやっていた感性と処世術だったように思います。だからこそ、自分自身とキャラとの乖離が大きくなり過ぎると、認められているのはキャラであって自分ではない…などと疎外感を感じたものです。

 ところが今日の「インスタグラム女子」や、それに類する人々には、これが当てはまらないように思われるのです。

 どれほどの虚飾と虚栄を集め、アカウントを「盛りまくった」としても、そこで疎外感を感じたりキャラとの乖離に悩んだりせず、承認欲求を満たせてしまうのが、いまどきの感性なのではないでしょうか。

 これは、インスタグラムや女子に限った話ではありません。若い世代に限った話でもなくなっているのかもしれません。

 たとえばフェイスブックやインスタグラムを使用している中年男女にも、「盛ってみせる」ことをためらわないアカウントはそれなりあります。ツイッターでも、明らかに等身大のその人自身とは思えない、キャラ立ちの大げさな、キラキラアカウントやネタアカウントが人気を博しています。

 つまり何が言いたいのかというと、アカウント上で作り上げたキャラと「あるべき自分」や「本当の自分」との乖離は、もはやたいした問題ではなくなっているのではないか、ということです。それと、そういったことをたいした問題とは感じず、キャラが承認されれば自分自身も承認されるような感性が台頭してきているのではないか、ということです。

 自分自身とキャラの乖離を意に介さなくて構わないなら、「インスタグラム女子」的な処世術もそんなに悪くはないかもしれません。
「インスタ女子」は承認欲求の無間地獄か

 素のままの自分自身では承認欲求があまり満たせない人でも、インスタ映えする写真を撮って、編集して、キラキラしたキャラをでっちあげてしまえば、大量の「いいね」をアカウントに集めることができます。キャラと自分の乖離に悩まない人なら、これでも承認欲求は満たされるでしょう。
 むろん、それをやり過ぎて承認欲求がエスカレートしてしまい、炎上したりするようでは話になりませんが、「盛ってみせる」度合いをきちんとコントロールし、アカウントを運営できる限りにおいては、失うものよりも得るもののほうが多いかもしれません。

 そういう目線で「インスタグラム女子」を考え直してみると、あれは、アカウントやキャラを複数使い分けるのが当たり前になった現代ならではの、社会適応の先鋭化した姿の一例ではないか、という風にもみえます。ツイッターのキラキラアカウントやネタアカウントについても同様です。そういうことをやっても疎外感を感じたりキャラとの乖離に悩んだりすることなく、承認欲求が満たされ、社会生活も円滑に営んでいけるのなら、そう悪くもないのではないでしょうか。

 スマートフォンもインターネットの常時接続もなかった頃は、「インスタグラム女子」的な処世術や感性は、やろうと思っても難しかったでしょう。

 しかし、現代は誰もがスマホを持ち、いつでも写真が撮れて、簡単にキャラを編集でき、複数のアカウントを束ね持つのが当たり前になっています。アカウントにつくられたキャラなるものが、選好や編集のうえで成り立っていることを、お互いに知っている時代でもあります。そのような時代において、自分自身が承認されたいと願うことと、自分がデザインしたキャラが承認されたいと願うこととの間に、いったいどれぐらいの距離があるのでしょうか。

 「インスタグラム女子」のやり方を、虚飾と虚栄にみちた、承認欲求の無間地獄と見て取るのは簡単ですし、それにそれで事実の一端ではあるでしょう。が、そういう理解だけで本当に構わないのか、私にはだんだんわからなくなってきました。

 それと、私たちは忘れてはならないのです。「インスタグラム女子」をツベコベ言う人々にしても、その大半はSNSやインスタグラムとは無縁ではなく、「いいね」のために写真を撮り、140字以内の文章をつぶやき、自分自身のアカウントのキャラを編集している点では似たり寄ったりだということを。

 「インスタグラム女子」を揶揄(やゆ)したりバカにしたりしている人の中には、案外自分の中にある「インスタグラム女子」的な部分を直視したくないから、彼女たちのことをあれこれ言って、他人事にしておきたい人もいるのかもしれませんね。

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