ひとこと承認欲求を満たすと言っても、20世紀末のころのそれと、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)やインスタグラムを誰もが使用するようになった現代とでは、その前提となる感性が違ってきているように見受けられるからです。

 20世紀末においても、承認欲求は人々の重要なモチベーション源でした。高級ブランド品を買ったり、海外旅行に出かけたり、プリント倶楽部を撮ったり… とにかく、承認欲求を満たすための手段になりそうなものには片っ端から手を出していました。
 ただ、あの頃の人々が承認してもらいたかったのは、「あるべき自分」や「本当の自分」ではなかったでしょうか。

 自分自身から乖離(かいり)したキャラをではなく、「あるべき自分」や「本当の自分」をできるだけ磨き上げて、他者に注目されたり褒められたりして承認欲求が満たされたい-この大原則に沿ったかたちで、モノを買ったり、体験を買ったり、関係性を維持したりしていたのが、20年ほど前にはやっていた感性と処世術だったように思います。だからこそ、自分自身とキャラとの乖離が大きくなり過ぎると、認められているのはキャラであって自分ではない…などと疎外感を感じたものです。

 ところが今日の「インスタグラム女子」や、それに類する人々には、これが当てはまらないように思われるのです。

 どれほどの虚飾と虚栄を集め、アカウントを「盛りまくった」としても、そこで疎外感を感じたりキャラとの乖離に悩んだりせず、承認欲求を満たせてしまうのが、いまどきの感性なのではないでしょうか。

 これは、インスタグラムや女子に限った話ではありません。若い世代に限った話でもなくなっているのかもしれません。

 たとえばフェイスブックやインスタグラムを使用している中年男女にも、「盛ってみせる」ことをためらわないアカウントはそれなりあります。ツイッターでも、明らかに等身大のその人自身とは思えない、キャラ立ちの大げさな、キラキラアカウントやネタアカウントが人気を博しています。

 つまり何が言いたいのかというと、アカウント上で作り上げたキャラと「あるべき自分」や「本当の自分」との乖離は、もはやたいした問題ではなくなっているのではないか、ということです。それと、そういったことをたいした問題とは感じず、キャラが承認されれば自分自身も承認されるような感性が台頭してきているのではないか、ということです。

 自分自身とキャラの乖離を意に介さなくて構わないなら、「インスタグラム女子」的な処世術もそんなに悪くはないかもしれません。