素のままの自分自身では承認欲求があまり満たせない人でも、インスタ映えする写真を撮って、編集して、キラキラしたキャラをでっちあげてしまえば、大量の「いいね」をアカウントに集めることができます。キャラと自分の乖離に悩まない人なら、これでも承認欲求は満たされるでしょう。
 むろん、それをやり過ぎて承認欲求がエスカレートしてしまい、炎上したりするようでは話になりませんが、「盛ってみせる」度合いをきちんとコントロールし、アカウントを運営できる限りにおいては、失うものよりも得るもののほうが多いかもしれません。

 そういう目線で「インスタグラム女子」を考え直してみると、あれは、アカウントやキャラを複数使い分けるのが当たり前になった現代ならではの、社会適応の先鋭化した姿の一例ではないか、という風にもみえます。ツイッターのキラキラアカウントやネタアカウントについても同様です。そういうことをやっても疎外感を感じたりキャラとの乖離に悩んだりすることなく、承認欲求が満たされ、社会生活も円滑に営んでいけるのなら、そう悪くもないのではないでしょうか。

 スマートフォンもインターネットの常時接続もなかった頃は、「インスタグラム女子」的な処世術や感性は、やろうと思っても難しかったでしょう。

 しかし、現代は誰もがスマホを持ち、いつでも写真が撮れて、簡単にキャラを編集でき、複数のアカウントを束ね持つのが当たり前になっています。アカウントにつくられたキャラなるものが、選好や編集のうえで成り立っていることを、お互いに知っている時代でもあります。そのような時代において、自分自身が承認されたいと願うことと、自分がデザインしたキャラが承認されたいと願うこととの間に、いったいどれぐらいの距離があるのでしょうか。

 「インスタグラム女子」のやり方を、虚飾と虚栄にみちた、承認欲求の無間地獄と見て取るのは簡単ですし、それにそれで事実の一端ではあるでしょう。が、そういう理解だけで本当に構わないのか、私にはだんだんわからなくなってきました。

 それと、私たちは忘れてはならないのです。「インスタグラム女子」をツベコベ言う人々にしても、その大半はSNSやインスタグラムとは無縁ではなく、「いいね」のために写真を撮り、140字以内の文章をつぶやき、自分自身のアカウントのキャラを編集している点では似たり寄ったりだということを。

 「インスタグラム女子」を揶揄(やゆ)したりバカにしたりしている人の中には、案外自分の中にある「インスタグラム女子」的な部分を直視したくないから、彼女たちのことをあれこれ言って、他人事にしておきたい人もいるのかもしれませんね。