岸信介元首相は、晩年になっても「大きな失敗だった」と悔やんだものがある。首相在任中、日米安全保障条約の改定承認を国会で審議する前に衆院解散・総選挙をやりたかったのに、やれなかったことだ。

 昭和57年に岸から取材した「岸信介証言録」(原彬久編。毎日新聞社)によると、岸はこう述懐している。

 《国民に現行の安保条約と新条約の違いを示して、いかに新条約が立派なものであり、また日本にとっていかに利益であるかということを総選挙によってナニしたかったんです。(略)総選挙になれば絶対勝つという確信をもっていました》

 《選挙に勝利して議会に臨んだら、議会がいくら騒いだって、国民が新条約を支持しているではないかということになるんです。いろいろ騒いでいる連中は、国民の騒ぎじゃなしに、ある一部のつくられた騒ぎだということがいかにも明確になるんです》

 《あのとき解散をやっておけば、あんな騒動はなかったと思うんですよ》

 「あんな騒動」とは、「安保闘争」を指す。

 新条約は、日米共同防衛を義務付け、昭和26年に調印された日米安保条約よりも日米関係を対等に近づける内容になった。

 岸は、昭和35年1月に「首席全権」として訪米、新条約に調印した。その直後に衆院解散を断行しようとした。ところが、自民党の選挙を仕切る側近の川島正次郎幹事長の反対にあい、断念に追い込まれた。

 《「解散」の線で党内をまとめることは、到底できないということでした。選挙にあたって党内が不統一では勝ち目がないといって、川島君はどうしても解散に賛成しなかったんです》

 新条約承認への国会審議は、社会党が廃案に追い込もうと激しい抵抗をみせ、難航した。岸は、アイゼンハワー米大統領が来日する6月19日までに新条約を承認したかった。そこで、衆院の優越規定を踏まえ、同日には自然承認を迎えられるよう5月19日(実際は20日未明)に衆院の採決を強行した。

 警察官を議場に入れての採決という事態に、安保闘争の火はさらに大きくなった。6月15日、反安保のデモ隊は国会内に乱入、参加していた女子学生が警官隊との衝突の中で死亡する事件が起きた。岸は、警護が困難だとしてアイゼンハワー訪日の中止を決断、新条約の自然承認を受けて退陣を表明した。

 《安保条約のような問題に対応するときは、事前に解散して国民に信を問うほうがいいんですよ》

 もし、衆院解散を強行していれば激しい安保闘争は起きなかったし、政権がまだ続けられた-。岸の「大きな失敗」をもちろん、孫の安倍晋三首相も意識していたはずだ。

 安倍首相は、今回の衆院選を、みずから「アベノミクス解散(選挙)」と銘打った。来年10月に予定していた消費税率10%への引き上げを平成29年4月まで延期すると決断。「税制に重大な変更を行った以上、国民に信を問わなければいけない」と訴え、第2次政権の2年弱の経済運営の実績とともに争点に掲げた。

 もっとも、勝てると思って解散を断行した。しかし、首相の政治信条からすると、重要な政策は経済よりも集団的自衛権を含む安全保障であるし、究極の目標は憲法改正のはずだろう。しかも、来年の最大の政治課題は、何と言っても集団的自衛権の行使を容認するための安全保障法制の整備だ。来年の統一地方選が終わる同年5月から、安保関連法案の審議が国会で始まる。

 
 首相は3日、民放番組で行われた党首討論で、司会者から「集団的自衛権でも信を問うべきだ」と突っ込まれると、こう反論した。

 「いま、まさに信を問うているではないか。まさにこうやって(各党党首と)議論している。これを踏まえて投票していただきたい」

 さらに、こうも。

 「来年、(安保関連)法案を出す前に解散・総選挙というわけにはいかない」

 ただ、衆院選の遊説で、安保法制に触れない会場が半分以上はあったという。それだけ、首相は安保政策を目立たなくさせていたと言わざるを得ない。

 野党は、今回の衆院選で安倍政権を突けるような政策課題を見いだせず、当初は「解散に大義がない」と批判するしかできなかった。途中からは「アベノミクスは失敗」を繰り返した。この2年間、株価は上がり、経済指標も多くは上昇したのにだ。景気回復の実感はないと思う有権者は多くいようとも、政権奪取の意欲がない野党と比べると、さすがに「野党よりはまだ自民党」というトレンドになってしまうだろう。

 安保政策になると、主要野党の「政権公約」は目を覆う。

 民主党は、集団的自衛権の行使を憲法解釈変更で容認するとした閣議決定の撤回を掲げた。しかし、集団的自衛権の行使に賛成かどうかに触れていない。反対の官公労出身らがいれば、賛成の保守系もいて、まじめに議論すると党の解体に突き進みかねないからだ。

 維新の会は「現行憲法下で可能な『自衛権』行使のあり方を具体化」するという。党として集団的自衛権をどこまで認めるのか決めたわけではない。

 結局、日本をどうやって守るかという根本的な考えを論じることができず、反対派は「自衛隊がどんどん海外に行く」「日本は戦争に巻き込まれる」というような発言しかできなくなる。

 報道機関の世論調査を見ると、集団的自衛権の行使容認を支持する回答数は必ずしも多くはない。そうであっても、集団的自衛権を訴えた場合、野党のまずしい発言を聞く限り、自民党の議席を大幅に減らすことになっただろうか。

 祖父を尊敬する安倍首相は、祖父がいう「大きな失敗だった」を教訓に、衆院選で安保論議を堂々とやってもよかったのではないか。(政治部次長 今堀守通)