本郷和人(東大史料編纂所教授)

 今回はいつものお話とは別に、大河ドラマ『軍師官兵衛』をテーマにしてみましょう。ここで黒田官兵衛は軍師だ、と捉えられていますが、軍師ってそもそも何?

 戦争を実行するに際し、必要な3つの要素は「戦術(Tactics)・戦略(Strategy)・兵站(へいたん)(Logistics)」であるといわれます。

竹中半兵衛像=右(岐阜県垂井町)と黒田如水居士画像=左(福岡市の祟福寺所蔵) 
 いま、信長から毛利攻めの指令を受けた羽柴秀吉を例に取ります。目の前には播磨三木城がある。これをどう攻める? 力攻めか、裏切りを誘うか、兵糧攻めにするか。それを考えるのが戦術。三木城を落とすことが中国地方の制圧にどういう意味をもつ? 時間を掛けても東播磨を掌握して対毛利戦の前線基地にするか、三木城に対応する適当な兵を割いて西進を急ぐべきか。それを考えるのが戦略。羽柴軍の兵をどこでどう募り、彼らをどうやって食べさせる? それを考えるのが兵站、です。

 お隣の国の劉邦(BC256?~195年)が覇王・項羽を打ち破って漢帝国を打ち立てたとき、大きな功績があった3人を「漢の三傑」と呼びます。韓信と蕭何(しょうか)と張良。韓信は兵を率いて敵と戦う、すぐれた将軍です。「戦術」の担当。蕭何は民を治め、安定した税収をもたらす名宰相。これは「兵站」の係です。そして張良は「謀(はかりごと)を帷幄(いあく)のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決する」(劉邦の評価)。漢軍の「戦略」を支えた人。いうなれば、彼こそが軍師です。

 漢帝国が滅亡に瀕(ひん)すると、曹操(155~220年)が台頭し、「三国志」の時代がやってくる。この時代を描写する『三国志演義』の世界では、軍師たちが大活躍。曹操に仕えた荀彧(じゅんいく)・郭嘉(かくか)・司馬懿(しばい)。袁紹(えんしょう)に仕えた田豊・沮授(そじゅ)。孫権に仕えた魯粛。それに何といっても、劉備に仕えた諸葛亮。ファンなら、これくらいの人名を並べるのは朝飯前ですね。彼らの共通点は、本質的に「文官」であること。軍の指揮権を与えられ、彼ら文官の指揮下に何人もの将軍(むろん武官)が配置される。早くも「文民統制」が姿を現している、と考えられます(まあ、この辺の解釈は、三国志マニアからは厳しく批判されるでしょうけれど)。

 日本における軍師ってなに? というと、実は戦国時代を含む中世には、この言葉は史料に現れません。江戸時代、三国志などが講談で人気を博するにあたり、「では、わが国では、諸葛亮の役どころは誰なんだ?」という問いかけがなされ、その中で竹中半兵衛、黒田官兵衛らの活躍に光が当てられた。また、「○○流軍学」の隆盛から、武田家の山本勘助、上杉家の宇佐美定行などが登場してきた、というわけです。でも彼らは基本がみな「武官」。張良や諸葛亮とは、本質的に異なるんですね。

 じゃあ、官兵衛って軍師じゃなかったの? 厳密には、「そうです」と言わざるを得ません。関ケ原の戦いの時に、彼は兵を率いて九州を席巻しますが、その様子は軍師というより将軍、きわめて優秀な軍事指揮官と評するにふさわしいのです。でも一方で、中国地方を攻めていた頃から羽柴秀吉に種々の助言をしたことはあったでしょうから、まあ、日本的な軍師、としておきましょう。


 本郷和人 昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。