橋場日月(作家)

 大名間の領地をめぐる私戦は一切許さず、従わない者は天皇の名において討伐するのが、秀吉の命じた「天下惣無事」であった。しかし…。「秀吉様の大義名分はなにわの露と消えたのだ」。
官兵衛の言葉通り制約は崩れ、戦国の論理が蘇る中、天下分け目の決戦が迫る。官兵衛は九州で動いた。

秀吉の死で動き出す戦国大名


 慶長3年(1598)8月18日、不世出の英雄・豊臣秀吉が伏見城で没した。享年62。黒田官兵衛がそれを知ったのは、領国の豊前中津においてである。20日に第一報を受けた官兵衛は、24日に確報を得ると親しくしている吉川広家へ、

 「自分は京で世間の様子を静観するつもりである」

 と書き送った。かつて秀吉の名軍師として鳴らした官兵衛、ときに53歳。朝鮮の陣での不手際から秀吉の勘気をこうむり隠居謹慎し、秀吉の死によって完全に自分の時代は終わった――と、普通の人間であれば肩を落とすところだろう。

 だが、官兵衛は違う。

 「今いちど、腕をふるう時が来たわ」

  その目は輝きを取り戻し、全身には生気が満ちあふれていた。広家への書状は「上方に兵乱起こらん事、かねて悟」っている、と続く。乱を予期した官兵衛は、大坂と備後の鞆と周防の上の関に早舟を待機させて、何か事が起これば即座に国元に連絡が来る仕組みを整えていた(『如水記』)。このおかげで、秀吉の死を遠く九州にいながら3日目に知る事もできたのだ。

 12月、官兵衛は予定通り伏見の黒田屋敷に入る。すでに彼の耳には、豊臣五大老筆頭の徳川家康が、秀吉の死の直前に浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以・石田三成のいわゆる「五奉行」に対し、

 「豊臣家臣同士で私に派閥を作りません。秀頼様が御成人されるまでは諸大名からの知行に関する訴えを取り次がず、自分が仮に加増されても辞退します」

 と誓紙を出していたことが入っていた。

 しかし、官兵衛は“そんな約束など何の保証にもならぬ”と醒めきった頭脳で考えている。事実、秀吉の死の直後に石田・増田・長束・前田の四奉行が毛利輝元に「世間がいかに乱れても協力しよう」という誓紙を出させている(『毛利家文書』)。家康と親しい浅野長政を排除し、輝元ひとりと同盟を結ぶ内容は、明らかに「私に派閥を作らない」という秀吉の定めた法度に抵触していた。さらに、翌月の慶長4年(1559)1月9日には、薩摩の島津義弘・忠恒父子に対して朝鮮・滑川の大勝の功として五万石弱が加増された。これも、「知行は秀頼成人まで変更しない」という定めに背く。

 そもそも、文禄の役、慶長の役と2度にわたって実施された朝鮮出兵は、莫大な戦費と多大な将兵の命を消費しただけで、何ら得るところなく秀吉の死によって終わった。戦後になっても論功行賞が行なわれなければ、大名と家臣たちは破産するしかない。だが、朝鮮で寸土も獲得できなかった豊臣政権には、現実問題として行賞を行なうことができなかった。「秀頼成人まで」はその言い訳である。

 だが、問題を先送りすることはできない。島津への加増は、大老筆頭の家康が島津氏を手なずけようとしたのも確かだが、朝鮮での抜群の戦功をあげたMVPに恩賞を与えることによって、諸大名にも加増の期待を持たせガス抜きをするためでもあった。

 戦国の主従は契約関係で成り立ち、主君が気に入らなければ家臣は牢人も辞さない。有能な武士には何度も主家を代える者もいた。恩賞の有無や額の多少が原因で牢人した者も、藤堂高虎や渡辺了など数多い。

 秀吉様の大義名分はなにわの露と消えたのだ――伏見屋敷で目玉をギョロギョロさせながら、官兵衛は独りごちた。「天下惣無事」。大名間の領地をめぐる私戦は一切許さず、公儀への奉仕によってのみ本領を保証し恩賞を与える。これに従わない者は天皇の名において秀吉が討伐する、というロジックである。元々秀吉のアイデアではなく、織田信長や室町幕府も朝廷や天下のため、という名目で私戦停止を斡旋したり命じたりもしたし、家康も豊臣政権に組み込まれる以前、関東の大名へ「無事」こそ大事だ、と申し送ってもいる。

 秀吉は、圧倒的な武力と財力を背景にこの「惣無事」を押しつけ、天下の統一と支配を正当化した。私戦を禁止するために必要な公的論功行賞も行なえなくなった時点でそれは崩壊したのだ、と官兵衛は考える。すでに諸大名は領地に飢えた狼となって動き出し、それは黒田家も例外ではなかったのだ。

加藤清正と共闘、九州を席捲


 春、家康に対抗できる大物・前田利家が病死すると、事態は一気に動きはじめる。官兵衛の息子・長政が、加藤清正や福島正則など「武断派」と呼ばれる大名たちと組んで論功行賞凍結を遵守する立場の石田三成を襲撃しようとし、三成は隠居に追い込まれた。秋には、前田利長(利家の子)に謀反の疑いがかけられ、家康が前田征伐を号令する。これは利長の必死の陳弁によって回避されたが、もはや領地を欲する大名たちに歯止めは利かない。

 官兵衛は、連歌会など催しながら情勢を観望していたが、前田氏の事が解決する以前に「病の療養のため」と称して豊前中津に戻り、吉川広家に、

 「利長の処分まで発展するだろうが、さらに2、3年は世間を観察しなければならない。自分はもう余命も短いから、あとの心配は要らないので道楽がてら準備する」

 と書き送った。彼はすでに乱が起これば「道楽」で参戦する心づもりだったのである。

重要文化財「関ケ原合戦図屛風」(大阪歴史博物館蔵)
 果たして翌慶長5年(1600)、家康が会津の上杉景勝に謀反の動きありとする諸大名からの突き上げを受けて征伐を決定し、6月16日に大坂を出陣すると、7月13日には「大坂雑説(うわさ)」(『義演准后日記』)の騒動が起こった。石田三成が毛利輝元を大将に担いで家康を打倒することを決し、家康派=東軍、三成派=西軍の内戦が勃発したのだ。

 この報せは大坂留守居の母里太兵衛友信・栗山四郎右衛門利安から早舟によって17日に官兵衛のもとに届けられた。隠居の仮面をかなぐり捨て、気鋭の軍略家に戻った官兵衛は、

 「一も二もなく家康公につく。急いで軍勢を催し、まず九州の敵を掃討し、中国地方に進攻して毛利家の領国を平定し、播磨から京へ攻め上って家康公に忠誠を尽くそう」

 と宣言する。官兵衛はのち諜報によって西軍に内通者が多いことを広家に教えるなど、西軍の内部不一致を読み切り、有利な東軍側についておこうと考えたのである。無論、自分が三成と疎遠であることも判断材料だった。

 これに対し家臣たちは、長政様が主力をともなって出陣したため兵が少ないから、籠城して状況を観察したあと適宜出陣しましょう、と反対したが官兵衛は意に介さない。

 (時間との勝負よ。ケチな家康があとで恩賞をたっぷりと寄越す筈は無い。稼げるだけ稼いで、既成事実を作っておくに限る)

 倹約家・家康の地味ななりを思い浮かべながら、官兵衛は肥後熊本の加藤清正に連携の使者を発した。これに対し清正からは、

 「三成らと仲が悪い自分が今さら彼らに味方などできないから、(家康に味方しようという)如水殿のお考えに従って判断したい。相談の上、秀頼様への奉公第一で動く」

 という回答である。秀頼を第一にという清正の思いに、官兵衛も異論は無い。以後、両者は九州における数少ない東軍方として協力する。

 こうして猛将・清正という心強い同盟者を確保した官兵衛は、中津城天守の金蔵の金で9000にも及ぶ急ごしらえの軍勢をかき集め、8月中旬に軍議を開く。家臣たちはまたも、

 「家康公がいまだ関東から上方へ発向したとも連絡を受けないうちに、私的に兵を発するのはまずいのではありますまいか」

 と慎重論を唱えたが、官兵衛は、

 「三成の反逆は明らかなのだから、家康公が関東を出ようと出まいと、九州の敵を平らげるべきだ」

 とした。そんな官兵衛のもとに、8月25日付けで家康の重臣・井伊直政が発した書状が届く。官兵衛は長政を通じて、家康に味方し九州の西軍拠点を攻める事を申し送っていたのだ。直政の書には“お手に入るところはいくらでもお手に入れられよ”とあった。領国は切り取り次第、攻め取り放題という家康の意を体した保証書である。

 こうして家康側の言質を得た官兵衛は、満を持して作戦を開始した。東西両軍の戦いは長引くだろう。その間にできるだけ領地を獲得しておこう。事態がどう変わっても、第三極の立場も確保でき、発言力も大きくなる。官兵衛の狙いはきわめて合理的であり、彼は自身を信じて9月9日に中津城を発した。

 15日、石垣原で西軍方の大友義統を降伏させると、戦勝に気を良くした官兵衛は翌日、家康の信頼厚い藤堂高虎に、

 「加藤清正とともに毛利の本拠・広島を攻め取ろうと思う。長政には字喜多秀家の領地を賜りたい。清正と自分には、切り取り分を家康様の仲介で秀頼様から拝領する形で賜りたい。ともかく長政には上方で領地をいただき、自分とは別家扱いで家康様に取り立てていただけるよう、隠密で運動して欲しい」

 と取り成し依頼の書状を送っている。そして、10月25日には筑後柳川の立花宗茂を降伏させ、わずかふた月足らずであっという間に九州北部を平定してしまった。加藤清正と合流して島津氏の薩摩国に迫った官兵衛だったが、11月に家康から「寒い時期となった。ひとまず年内は国元に戻られよ」との指令が飛来し、作戦はそこで沙汰やみとなる。

 官兵衛が石垣原合戦に勝利した同じ9月15日に、関ケ原で三成ら西軍を破った家康は、その後は上方の戦後処置に忙殺されていた。それが一段落し、ようやく官兵衛の勢いに不安を感じたのだろう。すでに前月から家康の重臣・本多忠勝によって「早く上洛して来い」と催促がなされていた。

家康との虚々実々の駆け引き


 12月30日、大坂に上った官兵衛は家康と面談する。九州切り取り次第の約束など忘れたかの様な顔で“上方で希望の領地を与えるから、以後は天下の軍事・政治によろず参与するように”と話す家康に対し、官兵衛は、

 「私も年をとり、病で精力も衰えたので、お役には立ちかねると思いまする。長政に賜った筑前国で安楽に余生を送らせて下され」

 と固辞したという(『長政記』)。

 高虎に「広島を攻め取る」と広言した官兵衛は、他の者にも「関ケ原決戦がひと月も長引いていれば、中国地方へ攻め上り、華々しく戦ったのに」「九州を平定し、東へ攻め上って軍勢を十万にふくらませ、家康と決戦する事もできた」などと書き送り、語っている。

 実際問題となると、寄せ集めの軍勢で物資補給や占領地支配を担当する事務方も皆上方に出払っていた状況で、そういう大遠征ができたとは思えない。人的経常資源の問題だ。

 これらはあくまで官兵衛のポーズであり、実際のところは、長期戦が予想される関ケ原決戦の間に九州で加藤清正とともに一大勢力を形成し、豊臣秀頼に加増を受け、家康からの独立性を確保した大名として時代のキーマンになろうと考えたのではないだろうか。そして関ケ原決戦がわずか1日で終わってしまった時、官兵衛の狙いも外れた。官兵衛の思惑を読み取った家康は、あっさりと切り取り次第の約束を反故にし、官兵衛もまた家康の警戒を解くために年老い、病身でもあるからと領地や中央政治に興味が無い事を示してみせたのである。

 翌年5月、伏見城で家康が宴会を催したとき、名物の茶壷をいくつか並べた家康は、官兵衛に「好きな壷をさしあげよう。ただし自分ひとりで持って帰れるものに限りますぞ」と言ったという。それを聞いた官兵衛はすくと立ち上がって、一番大きな壷を抱え上げ持って帰り、家康を驚嘆させた。

 「大封は逃した代わりに大壷をせしめてやろう」

 という稚気あふれる気持ちだったのであろう。

 

はしば・あきら 昭和37年(1962)、大阪府生まれ。日本の戦国時代を中心に歴史研究・執筆を行なう。著書に『新説 桶狭間合戦』『真田三代 幸村と智謀の一族』など。