春日良一(スポーツコンサルタント)

 旧盆の季節、セミが鳴く夏の昼時、本家の座敷ではステテコ姿の祖父や父がうちわをあおぎながら、ビールの入ったコップを片手にテレビを見つめている。画面に映し出されているのは甲子園で行われている全国高校野球選手権大会の熱戦である。振り返れば、地元長野県の松商学園が4年ぶり16回目の出場を果たした1963年の夏で、その時の投手がとてもカッコいい選手だった。細部は定かでなくても、この風景は夏休み真っただ中の小学生時代の記憶として私の脳裏に焼きついている。
第99回全国高校野球選手権の1回戦、土浦日大に快勝し、駆けだす松商学園ナインら=8月9日、甲子園
第99回全国高校野球選手権の1回戦、土浦日大に快勝し、駆けだす松商学園ナインら=8月9日、甲子園
 だから、今夏の甲子園で松商学園が17年ぶりの白星を挙げたと新聞で知れば、高校野球をほとんど見なくなっていた私の心も思わず躍っていた。少年時代、故郷では松商学園か丸子実業が甲子園常連校だった。このお盆の時期、県代表に県民が熱い視線を送っていたのである。そして、それは恐らく今でも変わらない姿ではないだろうか。夏の高校野球は風物詩であり、いわば文化としてこの日本の地に定着している。

 しかし、一方で地球温暖化の影響であろう猛暑日が近年どんどん増えている状況で、真昼の屋外試合が果たしてスポーツとして適したものなのかどうか、議論が起きても不思議ではない。実際、猛暑日とは最高気温が35度以上の日を指し、この気温でのスポーツを日本体育協会は中止する原則を発表している。

 それでも、この炎天下で白球を追いかける若人のひた向きな姿を「それが青春」と、夏休みで帰省した昼間の宴でエアコンをつけて大人たちは楽しむのである。その文化を捨てることに考えが及ぶ人はまだマイノリティーであろう。

 なぜ、そうまでして高校野球はあり続けるのか、それは故郷で地元高校の活躍を応援するという行動規範(エーソス)に寄り添わなければ分からない。この気持ちはどこかでオリンピック競技大会のテレビ中継に見入るとき、日本代表選手に声援を送る姿に重なる。五輪では地元愛が愛国心に変貌して、日本各地からの応援が一つになる。地元愛は突き詰めれば、自己愛に行きつくが、それがスポーツでは世界とつながる一点ともなりうる。それが「オリンピズム」の極意である。

 五輪の哲学、すなわちオリンピズムは端的に言えば、「スポーツによる世界平和構築への信仰」である。それは政治、国、経済、性、人種、宗教、肌の色などあらゆる境を超えるツールとしてスポーツを捉えている。1894年に創設された国際オリンピック委員会(IOC)は当時の帝国列強主義が起こす世界戦争への危機に対して、スポーツによるナショナリズムの超克を提言したのである。

 しかし、それはナショナリズムを前提にした超克である。それが五輪の祭典を成り立たせている仕掛けでもある。「自己愛=郷土愛=愛国心」とは単純に思われるかもしれないが、五輪や高校野球を成り立たせている図式といえる。しかし、これが戦争にならずに、むしろ平和への架け橋となるのは、ツールがスポーツであるからだ。日本代表選手への敬意と応援が五輪を盛り上げる。そしてその結果、闘った相手を根本的なところで肯定していくことができる。