これに相似することは高校野球でも起こる。甲子園で地元の代表校が敗れたときは相当落胆するからだ。かく言う私もかなりひどいもので、人生が終わるような気分になった。1回戦で涙をのむことが多い長野県出身者は、この経験をかなり積んでいる。しかし、その後は勝利をつかんだ相手校に夢を託しながら、それまでよりクールな目でテレビ観戦を楽しむ。そして、さらにそれを破るチームが出れば、そのチームに敬意を払い、チームの中に優秀な選手がいれば、メディアの盛り上げに便乗し、そのチームに関心を抱き、応援する。いつしか決勝戦までたどりつき頂点の闘いを賛美する。

 高校野球ではここまでが限界だが、五輪ではそれがさらに国境を超えた友情を表現し、究極的にナショナリズムを超えた人間の調和への信頼が芽生える。
2016年8月10日、リオ五輪男子体操総合で金メダルを獲得、銀メダルのウクライナのオレグ・ベルニャエフ(手前)と健闘をたたえあう内村航平(甘利慈撮影)
2016年8月10日、リオ五輪男子体操総合で金メダルを獲得、銀メダルのウクライナのオレグ・ベルニャエフ(手前)と健闘をたたえあう内村航平(甘利慈撮影)
 リオ五輪体操個人総合での内村航平の大逆転劇を想起する。内村はトップと0・901点差で迎えた最終種目の鉄棒でパーフェクトな演技を見せ、大逆転を果たす。ここでわれわれは大いに感動し、この「奇跡の逆転」にこの上ない至福を得た。しかし、その思いは、記者会見での「ジャッジがあなたを好きだからではないか」というメディアからの質問で水を差された。冷静に対応した内村だが、この記者に対して金メダルを争った2人の選手が反論する。「ジャッジは公平であり、いつも内村は高得点を得ている」「最後の鉄棒は筆舌に尽くしがたい素晴らしいものであった。彼と競い合えることが喜び」と語ったのである。2人はウクライナと英国の選手である。これを目の当たりにした視聴者が学ぶことは大きい。自国の選手の勝利だけでなく、頂点を目指して努力するアスリートに国境を超えた声援を送るであろう。

 ことほど左様に五輪と高校野球の構造は相似しているが、その根本において決定的な違いがある。

 五輪にあって高校野球にないものとは何か。「○○ファースト」が流行する昨今、一瞬躊躇(ちゅうちょ)するが、あえて言えば、それは「選手第一主義」である。すべては選手を大切にすることから始まる。なぜなら選手は世界平和構築の使者であるからだ。頂点を目指す闘いの中で、自らを鍛え、「努力する喜び」を知り、「より速く、より高く、より強く」(オリンピックモットー)を目指し、人間の限界に挑む姿を示す。それがあらゆる垣根を越えて、人と人とが結び合える可能性を現実化するという思想である。故にベストパフォーマンスを出せる競技会場、選手村、アクセス、食事などを整えることに精力が傾けられる。