総理は「敗戦の日」にわざわざ靖国参拝すべきではない

『青山繁晴』

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青山繁晴(参議院議員、作家)

 8月15日は敗戦の日ですね。終戦の日では、ないのではありませんか。

 これは、本稿のために考えた言葉ではない。小学生の時に胸の中で大人に問いかけていた言葉である。夏恒例のNHKをはじめテレビ定番の「もう二度と戦わない」という番組でも一斉に「終戦」と繰り返すから、口には出さなかった。何でも、相手も選ばずに、そのまま言う気の強い子供だったとは思うが、これだけは言わなかった。

 いや、言わなかった胸の裡(うち)の疑問はもう一つある。「もう二度と戦わない? じゃ、日本の大人は奥さんとかお母さんとかが酷(ひど)い目に遭わされそうでも戦わないのかな。ぼくは戦うよ。母さんでもお姉さんでも家族に何かあれば、ぼくが子供で相手が大人でも戦うよ」

 長じて、安全保障の専門家の端くれになったことと、この幼い素朴な疑問とは案外に直接的な繋がりがあると思う。たまさか国会議員となり、2度目の8月15日を迎える今、それに気づいた。

 幼い疑問は大学で、あるいは社会で解決されるどころか余計に深くなったから、それが生涯の仕事のひとつを安全保障分野から選択することに繋がったのだろうと思う。

 さらに仕事上、海外の諸国を歩き回るようになると、もっと生々しい現実に向かい合わざるを得なかった。すなわち敗戦を終戦と言い、それを契機にして友だち、恋人、家族が辱められ殺されても自らは戦わないという国となった例は世界にないという現実だ。
71回目の終戦の日を迎えた靖国神社には、祈りをささげるため早朝から参拝者が訪れた=2016年8月15日、東京・九段北
 そして諸国はみな、実は敗戦国である。いつの戦争で負けたかという違いだけだ。第二次大戦で圧倒的な勝者となったアメリカも30年後の1975年には小国ベトナムに無残に負けた。しかし「家族を殺されかけていても二度と戦わない」という国に成り果てたのは、この祖国だけである。

 子供時代のふたつの疑問で言えば「敗戦をなぜ、終戦と呼ぶのか」ということについては、やがて「勝った、負けたという以前に、戦争という惨劇がようやく終わったという庶民、国民の気持ちも込められているのだろう」と考えるようになった。

 しかしそれでもなお、歴然たる大敗を終戦と言い換えるのは、まさしく子供の教育に悪い。

 こうした姿勢が、どれほど広範囲に惨たる現実を生んでいるだろうか。
漁船すら憲法9条を熟知する北朝鮮の「侮蔑」

 例えば、北朝鮮という小なる破綻国家に同胞を奪われたまま、ふつうに日常生活を送っていく、わたし自身を含めた日本国民とは一体、どこの誰だろうか。これが本当の日本人なのだろうか。

 小なる破綻国家というのは、まったく侮蔑ではない。人口は日本の6分の1前後のおよそ2千万人にすぎず、GDPは日本の約3百分の1、年間の国家予算は実に約1万分の1、そして独裁者の一族がどれほど潤っていても国民生活は天候次第で餓死者も出すほどに破綻している。

 その隣国に有本恵子さん、横田めぐみさんをはじめ何人を奪われているかすら分からず、しかし15年も前に金正日総書記が小泉純一郎総理(いずれも当時)に公然と拉致を認めていながら、依然として誰も取り返しに行かない、いや行けないと思い込んでいるのが、ありのままの日本である。

 それどころか、不肖わたしが参議院の予算委員会で拉致被害者の帰還をめぐって質問すると、足音高く委員会室を出ていく野党議員、それも有名な女性議員が複数いるのが傍聴席の国民に目撃されるのが日本国である。

 北朝鮮はこの日本をあからさまに侮蔑(ぶべつ)し、たった今、日本海の好漁場の大和堆(やまとたい)に粗末な漁船で現れ、稚魚をも根こそぎ奪い尽くす網で魚もイカも勝手に取り、日本の漁船どころか水産庁の違法操業取締船もまったく無視をしている。日本国民の漁家はやむを得ず、最近は北方の武蔵堆に漁場を移そうとしていると、その近くには北のミサイルを撃ち込まれる始末である。
長崎県五島市・福江島の南の海域で、浸水し傾いた北朝鮮籍の貨物船チョン・ゲン=1月12日(第7管区海上保安本部提供)
 この小舟、マストに北朝鮮の国旗を掲げ、お尻には軍に所属することを朝鮮語で記している。つまり日本国憲法第9条の致命的な最後の一行、「国の交戦権は、これを認めない」の意味を、学校で教わらない日本国民よりも、はるかに良く理解している。

 敗戦後の日本は相手が国(外国)であり、軍をはじめ国の機関であれば、まさしく何をされても戦わないことを良く知っているのだ。

 だから海上自衛隊は何も対応していない。できない。海上保安庁は奮闘して800隻以上を追い払ったが、追い払うだけであり、再び同じ小舟も平然と押し寄せてくる。

 日本海の水産資源は生態系ごと破壊され続け、漁家の生活は根本的に脅かされている。

 わたしたちの日本は言霊の国である。

 敗戦を終戦と言い換え、「二度と戦わない」と言って済ませているために、どれほどの深刻、無残な現実を生んでいるのか。
「総理の靖国参拝」は複雑な問題ではない

 この最新の事例と同じことが繰り返し、起きている。太平洋側の東京都小笠原諸島では、漁家がおよそ40年を費やして育て上げた赤珊瑚が、これは五星紅旗を掲げた中国漁船団のやはり粗悪な網で奪い尽くされた。

 小笠原村議会の議長さんらが、わたしの議員会館の部屋を訪ねてこられた。海が荒らされ通常の漁も困難になっている現実を訴え、「青山さんしか聞いてくれないと思って、今日のアポイントメントを秘書さんに申し込みました」と仰(おっしゃ)った。

 かつて島根県隠岐郡のこれも好漁場、竹島とその周辺の領海を韓国に奪われるとき、不当にして一方的な発砲で日本国民の漁家が殺害されているのに、これまでは学校で教えられることすらなかった。

 不肖わたしが国会に出て、自由民主党の会合などで訴え続けていると、文科省の良心派の官僚らが動き、学習指導要領に盛り込まれた。

 獣医師の養成機関をめぐる騒動で、既得権益を死守してきた文科省の裸の姿が実は浮かび上がっているのだが、こんな良心派もいる。

 だが、竹島は帰ってこない。北方領土も返ってこない。尖閣も脅かされている。

 このことをめぐって、なぜ与野党をはじめ国論が分かれるのか。ここだけは一致できる点ではないのか。

 これを考えれば、8月15日にいつも決まって話題にされる「総理や閣僚の靖国参拝」も、マスメディアや学者、評論家がこれも決まって騒擾(そうじょう)を掻(か)き立てるほど複雑な問題ではないことが分かる。

 まず靖国神社は、先の大戦を含めて国のために戦った死者を祀(まつ)る場所である。そこには兵士ならざる国民、例えば沖縄の学徒看護隊の少女たちも祀られている。

 おのれのためではなく人のため、国のために死した人を政府が尊び、祈らない国はこの地球上に、日本を除いては、存在しない。

 ドイツでもナチを否定したうえで、戦ったドイツ国民を悪者にはしない。朝日新聞や岩波書店が「ドイツは反省したのに日本はしない」という主張の好例にしているワイツゼッカー独大統領(当時)の演説も「ナチが悪かった。ドイツ人は悪くない」という趣旨を明言している。実際はナチも最初は選挙でのドイツ国民の圧倒的な支持によって権力の座についたにもかかわらず、である。
ワイツゼッカー元独大統領
 ワイツゼッカー演説の真の肝は「一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります」という部分だ。

 すなわち悪いのはヒトラーとその一味、追従者であり、ドイツ民族全体の罪ではないと説いている。

 したがってワイツゼッカー大統領(当時)は第二次大戦のドイツの戦争と、ヒトラーによるユダヤ人や少数者への迫害を明確に分けて、戦争についてはどこでも起こり得るとして事実上、正当化した。

 さらにはヒトラーの台頭を許したのはイギリス、フランスにも責任があるとまで述べている。
「天皇陛下も参拝されない」明快な理由

 アメリカの首都ワシントンDCの国立墓地では、アメリカがヒーローになった先の大戦だけではなく、ハリウッドの娯楽映画ですらけちょんけちょんに非難するベトナム戦争の死者もまったく同等に尊敬され、祀られている。

 なぜ日本だけが違うのか。

 それもなぜ、中国や韓国、北朝鮮、あるいはアメリカという外国から論難されねばならないのか。

 これも子供がまともに考えれば不可思議な話であるから、「いや、靖国参拝は駄目だ」とする根拠を補強してある。

 ひとつは「天皇陛下もA級戦犯が合祀されてから参拝をされていないではないか」という声高な主張である。

 この天皇陛下をめぐって、先の通常国会では今上陛下のご譲位を実現する法を成立させるとき、野田佳彦前総理をはじめ野党の要求に自由民主党が間違って膝を屈し、付帯決議の中に「女性宮家の創設」の検討が盛り込まれてしまった。女性がご当主の宮家ができれば、そのご当主が一例では中国人と結婚なさると、場合によっては中国人による新しい王朝が始まることにも扉が開く。

 これに反対するために、わたしは山田宏参議院議員、鬼木誠、長尾敬両衆議院議員らと「勉強会」を連続して開いた。

 その講師に招いた一人が、靖国神社の神官、松本聖吾総務課長である。

 わたしは俗説を駆逐するために、いくつかを確認した。遊就館の展示課長も務めた歴史家でもある松本さんの解説は明快だった。

「陛下が直々に参拝されるのは基本的に多くの戦死者が出たときであり、日本は長期にわたって戦争をしていないから参拝がないのはむしろ当然です。一方で陛下の勅使が、靖国神社の主たるお祭りである春と秋の例大祭に欠かさずお出ましになっているので、陛下と靖国との関わりはまったく変わっていない」

 つまりは、A級戦犯云々(うんぬん)というのは、無知を利用した言いがかりに過ぎない。

 この解説は、安倍総理の参拝をどうするかにも繋がる。
靖国神社の春季例大祭に合わせて安倍首相が奉納した「真榊」=4月21日午後、東京・九段北
 8月15日は靖国神社にとって、本当の主たる刻ではない。日本の内閣総理大臣は誰であれ、8月15日の、作られた異常な騒擾にかかわらずに例大祭にこそ淡々と、粛々と参拝し、諸国と同じように、人のため、公のために死した人を国家の永遠の責任として弔い、日本を世界標準、国際法にきちんと沿う国にする大切な一歩とすべきである。

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